底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

感動はしたいししたくない

感動

何かの作品や誰かの言動によって、自分の核のようなものを強制的に変えられた、というほどの感動を味わったことはあるだろうか。私にはある。だから、私はこの世界が好きだ。それが私の生きる希望であり、生きる動機でもある。自分の奥底を自分ではないものに抉られたのだ。自分よりも自分の内に届く存在がこの世にはあったのだ。自らの孤独の殻が突き破られ、世界と自分が結びついたと感じる瞬間ほど、たまらないものはない。できればもう一度経験したいと思う、そのためにこそ私は生きている。




意地

いや、やっぱり嘘。できればもう二度と経験したくないと思う。二度と経験しないためにこそ、私は生きている。自分よりも自分の内に届く存在がこの世にあるなど認めてなるものか。自分ではないものに自分の奥底を触れられるわけがないのだ。もう絶対に同じ「錯覚」に陥らないために、私は自分以外には決して変えらない自己を見つけて確立していかなければならない。それが私の生きる希望であり、生きる動機でもある。




不変的

私は常に、変えられるものなら変えてみろよという姿勢で生きているような気がする。それで本を読み漁ったりしている。自分を変えてくれる存在に出会いたいような、決して出会いたくないような、いつもその狭間で息をしている。積極的に出会いに行き結果的に出会ったのなら、私はその変化によって更なる不変的な自己を手に入れることができる。逆に出会わなかったのなら、それはもう今の自己が相当に不変的で強固だということを表すだろう。だから自分を変えてきそうな存在から逃げることだけはしたくないと思う。それは自分の自己が既に可変的であると自己紹介しているようなものだ。可変的な部分をとり除けるだけとり除いて、最後にそこに残ったものこそが正真正銘の自分の自己なのである。




削落

最後に何が残るのか、私は見たいのだ。つまりはそれが私という人間の本質であろうから。だから私は自分を変えてくれそうな存在にとことん出会って、削ぎ落とせるものはを全て削ぎ落としたい。その先には何が待っているのか、今からは想像もできないけれど、案外今とそんなに変わらなかったりして…?いやさすがに傲慢だな。感動とは想定できなかった自身の心の動きであるから、先に自分でできるだけ想定しておくことが大事になってくる。その上でそれを突き破ってきたものにこそ、人は感動できるのである。やはり気持ち的にはもう二度と感動したくないですね。文字通り全てを想定してやりたい思いである。