底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

過程と結果の価値について

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元からその状態であることと、様々な試行錯誤を積み重ね数ある選択肢の中から最終的にその状態に辿り着くこととではどちらの方がより価値があるのだろうか。なんとなく後者であるような気がするのではないか。元から真面目に生きている人より、ヤンキーを卒業し更生した後に真面目になった人の方が称賛を受けやすいという例の現象も、人のこの感覚によっているのだと思う。しかし、元からその状態であろうと、何かしらの過程を経てその状態に辿り着いたのであろうと、同じその状態であるのには変わりないのだから、そこに価値の差があるのはよくよく考えてみればおかしいのではないだろうか。



2

元からその状態であることが価値とされにくいのはきっと、それがその人の「普通」だと考えられてしまうからだ。当たり前なことを当たり前にしていると捉えているから、その状態はただそうであるだけのものになってしまう。逆に何かしらの過程を経てその状態に辿り着いたことが価値とされやすいのは、それがその人にっては普通でないからだろう。その人なりの頑張りや苦悩を感じられ、それらを乗り越えている分だけそこには価値があるというわけである。しかし、やはり結果として同じ状態になっているのなら、そこに価値の差はないのではないだろうか。むしろ、もしその状態自体が価値であるのなら、元からずっとそれを維持しつづけていた人の方がより価値であるはずだろう。何かしらの過程を経た人は今更ようやくそのスタートラインに立っただけだと言える。




3

同じ状態であっても、元からそうであるのと、何かしらの頑張りや苦悩の過程を経てそこに辿り着くのでは価値が違うと思われてしまうのはつまり、過程にも価値が認められているからだ。苦難の道を歩いたということが、結果の価値に上乗せされているのである。逆に何かしらの頑張りや苦悩の過程を経ていても最終的に辿り着いた状態が最悪のものであったなら、その過程が賞賛されることは決してないだろう。つまり過程の価値もある程度結果によって決められるのである。しかしこれは端的に不公平であろう。だって元からそうである人はもうわざわざ苦難の道を歩むことはできないのだし、過程を経た結果が最悪であるのは常にそれを評価する者にとってであり、当人にとってはそうではない(からこそ苦難の道をわざわざ進んだのだろう)。過程に価値を認めるのなら全ての過程に、結果に価値を認めるのなら全ての結果に、そうしないと、それは偏った見方による同情でしかなくなってしまう。