底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生活の便利と人生の醍醐味について

車はもうこりごり

近頃色々な機会によって、私は車の運転を覚えた。免許は五年ほど前に取得していたのだが、長いことペーパーをやっていたのである。便利の象徴であるような車を扱えるようになって、私は少しだけこの世界から自由になったはずだ。重い荷物の買い物や、遠距離の移動もそれほど億劫ではなくなり、一人で静かに空調が整った空間のまま移動できるという最強の環境も手に入った。生活は確実に豊かになった...なったのだがしかし、私は自分の予想に反し車がなかった頃に比べて逆に圧倒的に不自由になってしまった。常に周りを見渡して意識を研ぎ澄ましていなければならないこと、思考に夢中になっても現実から一瞬も視線を外せないこと、心打たれる綺麗な景色が目の前に広がっていても即座にカメラを構えられないこと、面白そうな小道を見つけても気軽に入るのを許されないこと、ワクワクするようなお店に出会えても駐車場がなけりゃその戸を叩けないこと。まだ運転を覚えて数日だが、もうこりごりである。




便利のための便利のための便利のための便利の…

便利の代償はあまりに大きいと感じる。予め決めていた目的以外の全てが簡素化されその趣きを奪われる。目的に至る過程はもはやただの無味乾燥な手段でしかない。便利とは本来、時間や体力の節約のためにあるのだろう。嫌なことを少しでも短縮し楽にして、他のことに精力を回せるようにするというのが便利の価値である。ところで、その便利によって節約された時間と体力を我々は一体何に使っているのだろうか。まさか、お金という究極の便利を手に入れるための備えではあるまい。いやまさかね。便利のために便利を極めているなんて、いくら人間でもそんな馬鹿なことはしていないでしょ。そうですよね。




人生とは生活、生活とは人生

人生が終わるその日まで人は生活を送らなければならない。生活がどれだけ便利になろうが、死なない限りそこに待っているのは結局生活なのである。節約された時間と体力に端的な使いどころがあるのならいい。だが、もしないのなら便利に対しては一度立ち止まって考えてみるべきなのではないだろうか。便利のせいで目的ばかりを必死に追ってしまって、道中にある自分の心が躍るような出会いを逃してはいないか。少し寄り道をするくらいの余裕さえなくしているのではないか。人生は別に便利のために存在しているのではない。効率よく生活を送れることよりも、生活それ自体を楽しめることの方がずっと大事であるはずだ。「無駄」や「回り道」は楽しさの本質である。自分を喜ばす以外に何の意味もなく、目的からも遠ざかるような、便利とは正反対にある道を時にわざわざ歩むのが人生の醍醐味だろう。