底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

本気ということについて

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本気というのは面白い概念で、それはいつも後から書き換えが可能である。あの時は本気だったとか、あの時は本気じゃなかったとか、どういう風に過去に読み込みたいかで、どちらにも解釈できるようになっている。「あの時はああ言ったが、口をついて出た言葉で本気じゃない」「その言葉がつい口から出るということはそれが本気なんだよ」「本気でお酒をやめようとしたけどやめられなかった」「やめられなかったということは本気でやめようとしていなかったんだよ」などなど、本気かどうかは、過去を振り返る視点によって定められていて、その時々で本人が実際に本気だったかとは実はあまり関係がない。

 

 

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今自分が本気を出しているのかと考えるのはそういう意味で馬鹿馬鹿しい。それは未来の自分によって書き換えが可能であるから、深く考えても不変の結論を出すことはできない。これはつまり、本気というものは世界の実存側にある事実ではなく、世界を認識する人間の側に存在する物語だということである。ある人が「本当に」本気を出しているのかどうか、それは誰にも分からないことである。何せ実存ではなく、それは認識する人の認識の仕方に依存するものなのだから、ある人から見れば本気を出しているように見え、またある人からは全くそうは見えない、ということは容易に起きる。

 

 

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じゃあ、現実ではある人が本気だったかどうかをどうやって決めているのかというと、だいたいは前後の経緯や結果からの推察である。この経緯でこの結果だったのなら、本気だったのだろう、本気ではなかったのだろう、とそういうある程度の客観性を元に外側から決められるのである。つまりは経緯と結果から本気感が読み取れるなら本気だったのだし、逆にそれが読み取れなければ本気ではなかったということになる。

 

 

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しかしこれは本当に馬鹿げていると思う。なぜなら、本気で何かをしたけれど何もかもうまくいかないということは普通にあり、全く本気ではなかったが全てが奇跡的にうまくいったということも普通にあるからだ。それは経緯や結果から読み取れるものではない。本気は「本当は」実存側に存在するものだ。ただ本気を出している時には本気を出している自覚を持つ余裕なんかないので、それはいつも後から振り返られることでしか認識され得ず、その意味で物語に巻き込まれるしかないだけである。経緯や結果から考えることをやめ、当時の実感を素直に思い出してみる。「本当に」本気だったのかどうかという答えは、そうしてでしか近づくことはできない。

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普通の人はすごい

普通の人はすごい

普通の人というのはすごいなと常日頃思う。私は普通の人のようにはなれない。まず、他人との何気ない会話を楽しむ心を持てない。他人と会話をする時、私はいつも自身の自尊心の壊れを恐れており、それが壊れぬように気を張るので精一杯である。他人の一言一言に私の自尊心を破壊する凶器が隠れていやしないかと、点検するのでもう酷く疲弊してしまう。他人との会話なんて避けられれば避けられるに超したことはない。

 

 

自尊心の大きさが世界と同じ

私は己の自尊心を自分一人だけで守れる人に強く憧れを抱いている。普通の人はきっとそういう人間に違いない。だから、他人の言葉の節々など大して気にせずに日常の会話がするするとできる。それはとてもすごいことである。私の自尊心はあまりに大きい。身の丈から信じられないくらいにはみ出している。その自尊心が収まるほどの巨大な時空を他人との間にはまさないとおおよそ私は死んでしまう。私は自分が他人よりも偉いという世界認識をやめられない。他人は他人であり私ではないというそのことにおいて、私よりも下である。世界全てを認識するものとしての私はあらゆる他人を超越しており、いわば世界の神であるということは自明の事実だ。だからその神に向かって何事か、という思考がいつも脳裏にピッタリと張り付いているのである。もちろん、そういう思考が普通から見ればイカれていることは理解している。私だってやめられるのならやめていきたい。

 

 

運が悪い

私はこの自尊心を他人を心の中で見下すことで保ってきた。他人の劣や悪ばかりを注視し、優や善には目を背けてきた。運が悪いのは、私は自分のやっていることを正しく認識できるくらいには頭が良く、それを改善できないくらいには頭が悪かったことだ。だから、自己嫌悪に陥っては、ひたすらそういう自分に浸り続けた。しかし、そもそも私はこの身に余る自尊心をどうにかしようという心もないのかもしれない。なぜなら、私は自己嫌悪に浸りながらも、根源ではそういう自分が好きだからである。他人よりも大きな自尊心を抱くのは、それだけ自分が正しく世界を認識できている証拠だという気色悪い確信がある。その確信の正誤には決して目を向けないところが本当に救えないのだけど。

 

 

普通の人はすごい

それにしても、普通の人はどうやってこの自尊心を自分の身の内に収めているのだろう。私には皆目見当もつかない。彼らは世界を正しく認識できなていないのだ、だからそんな呑気に人とお喋りができる。というのが私の自尊心を守るための一応の答えであるが、こんなのが真実であるはずがないと察することができるくらいには私は頭が悪くない。だからこそ、やはり普通の人はすごいなと常日頃思う。

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当事者について

当事者

「当事者」という言葉がある。その事に直接関係する者という意味の言葉だそうな。どうも近頃この言葉には、それだけではない意味が込められているような感じがする。なんというか「当事者が言っているのだから」となると、誰もそれ以上何かを言ってはいけない空気になる。何かを言えば「当事者の苦しみをなんだと思っている」と必ずこちらが悪者扱いされる。当事者の主張を聞き入れる以外の選択肢が、社会的に奪われているのである。

 

 

こんな弱小ブログ見つからんかそもそも

ある事に直接関係する者の声と、その事に直接には関係ない者の声の間にある差というのはもちろん、その「直接さ」つまりは、それがどれだけ本人にとって生の現実であるのかということにあるのだろう。だが、それだけだ、と怒られるのを覚悟の上で私は声を大にして言いたい。それだけなのである。生の現実を生きている「から」その声が無条件に重んじられるべきだなどということは決してない。どちらの声も、同じ土俵で様々な角度からその妥当性を検証されるべきである。

 

 

経験の差は経験の差

ある経験の有無の差は経験しているかどうかの差に留まる。その経験の差から何か別の結論を導くことはできない。経験したことある人にしか分からないものがあるという言説にはとても慎重にならなければいけない。ここでの分からないものとは「実感」でしかないからだ。その経験をしていない者でも、実はそれ以外の全てを分かることができる。経験してきた人には確かに敬意が必要だ。実感の有無というのはもちろんそれだけでとてつもなく大きな差ではある。だが、それと言説の正誤は別の話だ。経験者の言うことでもそこに論理的矛盾や社会的妥当性がないのなら、それは却下されて然るべきである。経験というのは偏りなのだ。何かを経験するということは何かを経験しないということであって経験して何かを実感すれば、それとは引き換えに大量の見えなくなることが存在する。その事に我々はもっと留意するべきである。

 

 

やはり思考こそ正義

実感は道徳の始まりだ。他人の実感を想像しそこに同情を寄せて自身の言動を省みることこそが道徳的な行いというものだろう。しかし省みるあまり、なんでもかんでも重んじていたら、その構造は必ず悪用されてしまう。「当事者のフリをすれば自分も」というよからぬことを考える連中がわんさか湧いてしまうことになる。それを止めるにはやはり当事者とそうでない側の間で均衡を保つ必要がある。「当事者が言っているのだから」ではなく、客観的な誰にでも思考可能な検証を共に積み重ねることで、それは保たれるのである。

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正しいことを書きましょう

笑えない

書きましょうとは書いたが、さて、何を書きましょう。困ったことに最近何も考えていないですからね。別に考えたことだけしか書いてはいけないなんてルールはないですけど、やっぱり考えた実りあるものを書いていきたいじゃないですか。お前程度の頭で考えたことが実りあるものとか笑わせんなと言われれば、もう大いに笑っていただく他ありません。

 

 

善悪

しかし実りあるものとは何なのでしょう、何が実りになるのか、それはやはり人それぞれでバラバラなのでしょう。私の書く文章が誰かの実りになることは、なくはないはずである。しかし逆に誰かにとっては全くなんの実りにもならず、むしろ害悪であるといったこともままあると思います。その時、私は実りがあるという人のために書き続けるべきなのか、はたまた害悪であるという人のために書くことを中断すべきなのか。これは全くもって微妙な問題である。あるものが、誰かにとっては善であり、誰かにとっては悪である時、一体どちらの立場にたって考えるべきなのか、人はいつもそれをケースバイケースで必死に考え、その都度で答えを出してきた。現実にある善悪などは所詮そんなものでしょう。

 

 

私の美学

人には善悪以外にも基準があるのは明らかです。美醜であったり正誤であったり、そういったものは善悪とは独立に存在している。美であるが全くもって悪だということは普通にあり、誤であるが全くもって善だということも普通にありえるお話です。この事実は、しかし私の美学に反しています。いやお前の美学の話なんて知らんわという人はここでブラウザバックをお願いします。私は正誤と善悪が一致していないことがあまり好きではありません。正は常に善であり、誤は常に悪であるというのが理想です。なぜなら、その方が美しいからです。正が悪として糾弾され、誤が善としてもてはやされる世界は、見ていてとても気持ちのいいものではありませんので。

 

 

無理

その理想のために書いているなんていうのは嘘っぱちですが、私の書いたことが少しでもその理想を叶えるものになればいいなと思うのは本当です。だから私は本当の正しいことを書きたいと思っています。思っているだけで、まだまだ実現はできておりませんが。正しいことを書くというのは当たり前ですがすごく難しことです。それは正しく世界を認識する力と正しくそれを言葉に落とし込む力の両方があって初めて成し得るものですが、残念ながらそんな素晴らしい能力はどう考えても私にはありません。鍛えて、せめて身の回りの物事だけでも正しく記述したいところですが、それも死ぬまでにできるかどうか…。

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書きましょう

お久しぶりです

書かない人生の方が幸せであるのは言うまでもない。その上で書くことを選ぶのは、つまり自分の幸せなんかよりもずっと大事なものがあるからだ。死を胸中に浮かべるなら、これは誰しもが抱える思いのはずだ。幸せは死によって奪い去られる。だが文章は死によっても消えることはない。文章は一人の人生などという短小なものの内に収まらない。言葉を受け取る存在がいる限り永遠に残り続ける。書くこととは即ち何かを永遠に残さなければならないという世界に対する自身の慈愛の心が生み出す選択なのである。




どこまでも考えてゆきましょう

人様に何かを伝えたいのだとすれば、私の言いたいことはたぶん「もっと考えて」しかないのだと思う。世界の構造は複雑だ。簡単に何かをわかることはできないし、簡単になにかをわからないと投げ出すこともできない。我々はいつも、わかるようなわからないようなそんな狭間に身を置いている。暫定的な結論を梯子にしして、その上に更に暫定的な結論を積み重ねている。「分かった気になって誤認に基づいて何かの行為をする」私はこれをこの世で最も悪いことと考えている。なぜならと理由を述べるまでもないと思うが、つまりは誤りに誤りを上乗せしているからだ。それはきちんと自認された上で行われる悪よりも本人の真の意思でない分だけ、やはり最悪なのである。




いいから書け

いい加減書くことを貫きたいところである。色々書かない理由を並べても、私はまたここに帰ってくるのだ。書かない幸せを捨てて、書くことに執着していきたい。どんな人生を歩んだところで、存在の仕方それ自体に不満がある私が人生に満足できるはずもないことはとっくにわかっているはずだ。その不満を書くことにぶつけるのが唯一マシな道であることもとっくにわかっているはずだ。




はい

端的に書くことをしないと自分の頭がどんどん悪くなっていくのを感じる。実際この文章だって何が言いたいのかよくわからない。前はもっと明瞭な文章を書いていたはずだ。おや気のせいか。私の場合、書くことをやめると入れることもやめてしまう。自分の中に流れがなくなり、本当にホモサピエンスという名の動物でしかなくなる。思考が完全に止まっているのである。やはりそれではよくない。馬鹿は馬鹿でも、考え続ける馬鹿でありたい。書くことをやめるのをやめましょう。どんな駄文でもいいから書きましょう。とにかく動き続けましょう。やり続けましょう。私に残されている全てを賭けて生きていきましょう。わかりましたか?