底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

当事者について

当事者

「当事者」という言葉がある。その事に直接関係する者という意味の言葉だそうな。どうも近頃この言葉には、それだけではない意味が込められているような感じがする。なんというか「当事者が言っているのだから」となると、誰もそれ以上何かを言ってはいけない空気になる。何かを言えば「当事者の苦しみをなんだと思っている」と必ずこちらが悪者扱いされる。当事者の主張を聞き入れる以外の選択肢が、社会的に奪われているのである。

 

 

こんな弱小ブログ見つからんかそもそも

ある事に直接関係する者の声と、その事に直接には関係ない者の声の間にある差というのはもちろん、その「直接さ」つまりは、それがどれだけ本人にとって生の現実であるのかということにあるのだろう。だが、それだけだ、と怒られるのを覚悟の上で私は声を大にして言いたい。それだけなのである。生の現実を生きている「から」その声が無条件に重んじられるべきだなどということは決してない。どちらの声も、同じ土俵で様々な角度からその妥当性を検証されるべきである。

 

 

経験の差は経験の差

ある経験の有無の差は経験しているかどうかの差に留まる。その経験の差から何か別の結論を導くことはできない。経験したことある人にしか分からないものがあるという言説にはとても慎重にならなければいけない。ここでの分からないものとは「実感」でしかないからだ。その経験をしていない者でも、実はそれ以外の全てを分かることができる。経験してきた人には確かに敬意が必要だ。実感の有無というのはもちろんそれだけでとてつもなく大きな差ではある。だが、それと言説の正誤は別の話だ。経験者の言うことでもそこに論理的矛盾や社会的妥当性がないのなら、それは却下されて然るべきである。経験というのは偏りなのだ。何かを経験するということは何かを経験しないということであって経験して何かを実感すれば、それとは引き換えに大量の見えなくなることが存在する。その事に我々はもっと留意するべきである。

 

 

やはり思考こそ正義

実感は道徳の始まりだ。他人の実感を想像しそこに同情を寄せて自身の言動を省みることこそが道徳的な行いというものだろう。しかし省みるあまり、なんでもかんでも重んじていたら、その構造は必ず悪用されてしまう。「当事者のフリをすれば自分も」というよからぬことを考える連中がわんさか湧いてしまうことになる。それを止めるにはやはり当事者とそうでない側の間で均衡を保つ必要がある。「当事者が言っているのだから」ではなく、客観的な誰にでも思考可能な検証を共に積み重ねることで、それは保たれるのである。

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