底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

芸術とは神の声だ

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この頃他人の芸術ばかり鑑賞していた。音楽に小説に絵画にその他もろもろ。人の芸術を鑑賞するというのはつまりその人の排泄を見ることなのだと、私は思う。その人が何を自分の外に出さざるを得ないのか。ビジネス目的でない作品はその表れだと個人的には捉えている。作品自体に何かがあるのではなく、作品を作り上げる行為の方にこそ本人にとって重要で大きな意義があり、それをするために、ついでに作品ができあがっているだけに過ぎない。私が作品を通して見ているのはいつもその行為の方だ。

 

 

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排泄なんてのはしなくて済むのなら、しないに越したことはない。たいていの人はそう思うはずだ。必要性に迫られているからする。芸術も同じである。それは必要性の前に、どうしよもうなく突き出された人間だけがすることなのだ。それをしないと自分の中の何かが死んだり腐ったり、或いは上手く息ができなくなったり。つまりはするとかしないとか以前にするしかないのだという選択肢のなさから、芸術は生まれる。その意味で、芸術は当然自己表現ではない、また他者へのメッセージでもない。ただ自分の外に出さずにいられないだけのものである。

 

 

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だからこそ、芸術は美しい。そこに人間よりも高次の存在を読み取ることが可能になるからだ。それは本人の身体的な生存に関わるような必要ではない。また社会的な都合によるような必要でもない。しかしそれにも関わらず「必要」なのだ。ではそれは誰にとっての必要?そう問うて、神だという答えが返ってきても、もはやなんら不思議ではないだろう。少なくとも人間にとっての必要性ではないのだから。そこに人間より高次の存在を想定することは自然である。神の必要性に煽られて、芸術は生み出される。その神秘さが作品に介在するからこそ、人々は魅了されるに違いない。

 

 

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他人の芸術を見るとはつまりそこに神を読み取ることなのだ。神が何を呼びかけているのか、何を伝えようとしているのか。感受性のままに受け取ることで、自分にもどんな声が宿っているのかを知ることができる。自分の中の「必要」が分かる。それはもちろん必ずしも芸術という形をとるとは限らない。大抵の人は生き方そのものに反映されていくだろう。だから、この頃他人の芸術ばかり鑑賞した私はここに戻ってきた。書けよってそういう神の声がしたからだ。

 

 

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皆様、お久しぶりですね。書かない間も私は元気ですよ。いつまでも死を考え生きています。また次に神の声がする時にお会いしましょう。

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