底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

普通の人はすごい

普通の人はすごい

普通の人というのはすごいなと常日頃思う。私は普通の人のようにはなれない。まず、他人との何気ない会話を楽しむ心を持てない。他人と会話をする時、私はいつも自身の自尊心の壊れを恐れており、それが壊れぬように気を張るので精一杯である。他人の一言一言に私の自尊心を破壊する凶器が隠れていやしないかと、点検するのでもう酷く疲弊してしまう。他人との会話なんて避けられれば避けられるに超したことはない。

 

 

自尊心の大きさが世界と同じ

私は己の自尊心を自分一人だけで守れる人に強く憧れを抱いている。普通の人はきっとそういう人間に違いない。だから、他人の言葉の節々など大して気にせずに日常の会話がするするとできる。それはとてもすごいことである。私の自尊心はあまりに大きい。身の丈から信じられないくらいにはみ出している。その自尊心が収まるほどの巨大な時空を他人との間にはまさないとおおよそ私は死んでしまう。私は自分が他人よりも偉いという世界認識をやめられない。他人は他人であり私ではないというそのことにおいて、私よりも下である。世界全てを認識するものとしての私はあらゆる他人を超越しており、いわば世界の神であるということは自明の事実だ。だからその神に向かって何事か、という思考がいつも脳裏にピッタリと張り付いているのである。もちろん、そういう思考が普通から見ればイカれていることは理解している。私だってやめられるのならやめていきたい。

 

 

運が悪い

私はこの自尊心を他人を心の中で見下すことで保ってきた。他人の劣や悪ばかりを注視し、優や善には目を背けてきた。運が悪いのは、私は自分のやっていることを正しく認識できるくらいには頭が良く、それを改善できないくらいには頭が悪かったことだ。だから、自己嫌悪に陥っては、ひたすらそういう自分に浸り続けた。しかし、そもそも私はこの身に余る自尊心をどうにかしようという心もないのかもしれない。なぜなら、私は自己嫌悪に浸りながらも、根源ではそういう自分が好きだからである。他人よりも大きな自尊心を抱くのは、それだけ自分が正しく世界を認識できている証拠だという気色悪い確信がある。その確信の正誤には決して目を向けないところが本当に救えないのだけど。

 

 

普通の人はすごい

それにしても、普通の人はどうやってこの自尊心を自分の身の内に収めているのだろう。私には皆目見当もつかない。彼らは世界を正しく認識できなていないのだ、だからそんな呑気に人とお喋りができる。というのが私の自尊心を守るための一応の答えであるが、こんなのが真実であるはずがないと察することができるくらいには私は頭が悪くない。だからこそ、やはり普通の人はすごいなと常日頃思う。

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