底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

書きましょう

お久しぶりです

書かない人生の方が幸せであるのは言うまでもない。その上で書くことを選ぶのは、つまり自分の幸せなんかよりもずっと大事なものがあるからだ。死を胸中に浮かべるなら、これは誰しもが抱える思いのはずだ。幸せは死によって奪い去られる。だが文章は死によっても消えることはない。文章は一人の人生などという短小なものの内に収まらない。言葉を受け取る存在がいる限り永遠に残り続ける。書くこととは即ち何かを永遠に残さなければならないという世界に対する自身の慈愛の心が生み出す選択なのである。




どこまでも考えてゆきましょう

人様に何かを伝えたいのだとすれば、私の言いたいことはたぶん「もっと考えて」しかないのだと思う。世界の構造は複雑だ。簡単に何かをわかることはできないし、簡単になにかをわからないと投げ出すこともできない。我々はいつも、わかるようなわからないようなそんな狭間に身を置いている。暫定的な結論を梯子にしして、その上に更に暫定的な結論を積み重ねている。「分かった気になって誤認に基づいて何かの行為をする」私はこれをこの世で最も悪いことと考えている。なぜならと理由を述べるまでもないと思うが、つまりは誤りに誤りを上乗せしているからだ。それはきちんと自認された上で行われる悪よりも本人の真の意思でない分だけ、やはり最悪なのである。




いいから書け

いい加減書くことを貫きたいところである。色々書かない理由を並べても、私はまたここに帰ってくるのだ。書かない幸せを捨てて、書くことに執着していきたい。どんな人生を歩んだところで、存在の仕方それ自体に不満がある私が人生に満足できるはずもないことはとっくにわかっているはずだ。その不満を書くことにぶつけるのが唯一マシな道であることもとっくにわかっているはずだ。




はい

端的に書くことをしないと自分の頭がどんどん悪くなっていくのを感じる。実際この文章だって何が言いたいのかよくわからない。前はもっと明瞭な文章を書いていたはずだ。おや気のせいか。私の場合、書くことをやめると入れることもやめてしまう。自分の中に流れがなくなり、本当にホモサピエンスという名の動物でしかなくなる。思考が完全に止まっているのである。やはりそれではよくない。馬鹿は馬鹿でも、考え続ける馬鹿でありたい。書くことをやめるのをやめましょう。どんな駄文でもいいから書きましょう。とにかく動き続けましょう。やり続けましょう。私に残されている全てを賭けて生きていきましょう。わかりましたか?