底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

評価するとはどういうことなんだろうか?

評価は心によっている

評価に明確な基準を設けている個人はどのくらいいるのだろうか。私的には全然いる気がしない。何かを綺麗と評価する時、「この角度にこの色のこれがあるから、綺麗という評価に値する」なんて言う人は見たことがない。ほとんどの評価は個人の感じ方によっている。綺麗と心が感動したから綺麗と評価しているのである。美味しいも可愛いも面白いもいいも悪いも全ての評価がその人の感じ方からスタートしている。だから、何かを美味しいと感じたのにまずいと評価することはありえないし、何かを面白いと感じたのにつまらないと評価することもありえないのである。

 

 

評価と感想の違いは?

でも、だとするとその評価にどんな意味があるのだろうか?ほとんどが感性に依存しているなら、そんなのただの感想と同じじゃないか。それが感想ではなく評価であると言えるポイントはどこにあるのだろうか?

 

 

評価は人それぞれではない

それが感想なのか評価なのかはそれをいう人の態度で見極めることができる。何かを面白いとただ感想を述べた人なら、他人がどんな感想を言おうと気にすることは無い。他人が全然別の感想を抱いたとしても、せいぜい「へー他人はこう思うのか」と捉えるだけである。しかし評価の場合は、人それぞれということが許されない。何かを評価することは、鑑定士が土器や巻物を鑑定することと同じである。人それぞれで価値が違うなんてことは生じてはならない。鑑定士が100万円と評価したものを「私にとっては100円の価値しかないから100円で売ってくれ」なんて言って相手にしてもらえるわけは無い。職業的でない個人の評価もこれと本質は同じである。何かを面白いと評価している人は、それをつまらないと評価する人の存在を許せないし、何かを美味しいと評価する人は、それをまずいと評価する人の存在を許せない。評価には「正しい」という概念が入り込んでいるのである。そこには正解があるのだ。でも人それぞれ違う感性から出発した評価が人それぞれで違ってはいけないなんておかしいではないか。そんなの明らかに無理がある。だから現実には「価値観」なんて言葉が存在する。この言葉はとても変である。(何が変なのかはまた今度書きます)

 

 

評価はそんなに簡単な事じゃない

評価というのは本来とても難しいことである。もし評価に価値を持たせたいなら、自分自身がそう感じただけでは論拠として弱すぎる。どうしてそれがよいものであるのかを他人にも伝わるように説明できてはじめてそれは評価になり得る。「自分はそう評価する、そして評価する理由はそう感じたから」では誰も納得させる事は出来ない。それはただの感想と同じである。

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