底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

不運を侵害と捉えて余計に傷つくのやめたい

音に殺傷能力がある不思議

「言葉による侵害」というのがなぜ可能なのか、今回のブログはこの疑問を共有したい。言葉というのは言うなれば空気の振動であって、ある意味でただの「音」でしかない。その「音」に人を侵害する力があるなんて私にはとても不思議である。

 

 

言葉は私の何を侵害している?

実際に家に泥棒が入り物理的損害が発生したとか、飲酒運転の車に引かれて歩けなくなったといったことなら分かる。それは紛れもなく財産や身体が侵害されたということなのだから。しかし暴言を言われたとか、セクハラ紛いの発言をされたとか、価値観を強要されたとかということは、ただ相手が言葉を発しただけで、私は何一つ(目に見える)危害は受けていない。この場合の侵害は一体なぜ起こりうるのか、そしてそれは「何を」侵害されているのだろうか。

 

 

「誰かに向けて」話すって意外とムズい

相手の口から出たそれらをただの「音」として認識せず、自分を侵害することのできる言葉の刃物であると捉えているのはなぜだろう。それは一つには彼らと私は「同じ言語」を話しているからであろう、理解できない外国語で暴言を吐かれてもダメージにならないことから想像すると、これは明らかなことだ。しかし「同じ言語」を話している相手が暴言を吐いても、別に傷つかないという場面も考えられる。それは相手が私に向けて喋っているのではない時だ。見ず知らずの人同士が喧嘩で怒鳴り合っていても、その言葉で私が傷つくことはない。このことから、私を侵害できるのは「私に向けて私に理解できる言語を話している人」であることが分かる。しかし「私に向けて」という方の定義はすごく曖昧である。目の前で私の目や顔を見て言葉を発していたら、それが「私に向けて」喋っていることになる、というほど事態は単純ではない。例えば友人と二人で映画を見た帰り、彼(或いは彼女)が「面白くなかったね」と言ったとする、この言葉は私に向けて喋っていると普通は思うだろう。結果的には確かにそうなのだが、彼(或いは彼女)は実際には、たまたまこの日一緒に映画を見た友人(である私)に向かって喋っているだけである。その友人が偶然その日は私だっただけで、彼(或いは彼女)は私(だけ)に向けて喋っているのではないのだ。

 

 

不運を侵害と捉えて余計に傷つくのやめたい

「私に向けて」の定義は意外にシビアで、それはたまたまそこに居合わせたというだけではダメである。きちんと私にいうことでしか意味を果たさないような言葉でないといけないのだ。それを踏まえて考えると、世の中には「私に向けて」話されていることなんてほとんどないのではないだろうか。私が侵害と捉えていることは往々にして「同じ言語」を話しているが故に生まれてしまった不運なのかもしれない。人間である以上その不運を侵害と解釈してしまうのは仕方の無いことだけれども、もう少し他人の、せめて嫌なことを言う他人の言葉はただの「音」として聞き流したいものである。

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