底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

感じると創作のよき循環を保つために

見せるor見るが楽しい

人に自分の創作物を見せるor人の創作物を見る。私はその二択が好きである。特にインターネット上においての見せると見るの楽しさは他のものには変えがたい。何がその二つを楽しくさせているかといえば、相手のリアクションを気にする必要がないことと、自分の素直なリアクションを味わえることである。

 

 

感じることの自由

リアクション、評価、感想といったものをインターネット上で行う人もいるようだが、私的にはそちらはあまり面白くない。少なくとも私は何かの作品に対する自分の感想をインターネット上には載せたりはしない。「感じる」は個人に与えられた自由度の高い行為でどう感じても「よい」から、そこには面白さがある。「よい」というのは私がいかに感じても、世界の他のものには一切影響を与えないことを意味する。だから感想をネット上に載せる行為は私にとってその自由を殺しているだけで何もメリットがない。

 

 

「私ー世界」という単純構造を味わいたい

創作は私が世界に飛び出ることを意味し、感じるは世界が私の中に入り込むことを表す。どちらも「私ー世界」という両者だけの関係であるからこそ味わい深さが生まれると思うのだ。そこに「他者」という第三者が関係してくると、単純だった「私ー世界」の構造が一気に複雑化してしまい、感じるという純粋な行為の面白さは失われてしまう。創作はただ作り出されることにこそ意味があるし、創作物に対する感想もただ感じるからこそ意味がある。他人に高い評価をつけてもらう為の創作を否定するつもりは無いが、少なくとも私にとってそれは無価値な行為である。感じることも同様で、他人の感じ方などは全く私に無関係であるし、多数が悪い感想を持ったところでその創作物の私にとっての価値は変動しない。

 

 

感じると創作のよき循環を保つために

感じることの自由は、それを「口にださない」ことによって保証される。この場合は「口にださない」というよりは「ネットに載せない」と言った方がいいかもしれない。どちらにしろ「他人が関与できない」ということが重要である。他人の耳や目に入ることなく、私だけの秘密として私の中に存在するからたまらなく愛おしい。世界にふれる面白さはここからしか生まれない、私はそう思うのである。その愛おしい感想をただおっぴろげに、その場で公開するのでなく、自分なりの言葉や技術を身につけ、自分にしか表現できない方法で自分にしか表現できないものに変換して文章なりなんなりを創りあげる、それが私にとっての感性と創作のよき循環である。そのためにも、インターネットは「見せる」と「見る」の二つの使い方に留めておきたい。

f:id:kabiru8731:20210806192352j:image