底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

五十記事達成した!やったね!

五十回続いた奇跡

久しぶりにブログの管理画面を開いて分かったのだが、どうやら今回の記事が五十記事目になるらしい。五十記事も書いてきたのか、と自分でびっくりしている。何度も書いている事だが、私には書きたいことなど全然ない。全然ないのだけど書くことはしたいので、毎度毎度空っぽの自分を一生懸命、雑巾のように絞っては、そのギリギリ垂れてくる何滴かの雫をなんとか文章にしているのである。そんな状態で五十回も続くなんて奇跡としか思えんな。

 

 

書くことに慣れない

もっと沢山書いている人からしたら少ないのかもしれないが、私には端的に多く感じる。五十回も何を書いてきたの?というのが素直な感想である。五十回も書いてきたのに、しかし私は未だに毎日「今日は書けるかな…」と心配で心配でならない。書けるだろうという自信が全然ついていない。きちんと書くことを準備していないのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、それでも普通は五十回も書けたなら、安心できるはずであろう。五十という数字がまだ小さいから自信に繋がらないのだろうか。そうではない気がする。根拠はないがなんとなく私は百回でも二百回でも同じことを書くと思う。きっと書くことに慣れる日なんて私には訪れないだろうな。

 

 

実感がない

だって全部私の言葉じゃない、身に覚えのない言葉が書かれているのだもの。「私が書いた」という事実が内側の実感として全然湧き上がってこない。まぁ私のスマホだしね、他の人が書いているんじゃないことははっきり分かるから、消去法的に私が書いているということになるね、くらいの感覚なのである。本当に不思議なのだがこれらの言葉は書かれる前は私のどこにあったのだろう。

 

 

本当に私が書いたの?

ともあれ、書かなかったら一生自覚せずにそのまま私と共に死んでいたであろう言葉たちをきちんと残せる世の中であることに私は感謝したい。二十五にもなって、知らない自分を発見できるということは幸運なことである。「知らない自分」と書いたが、やはりこれらの文章を「自分」に帰属させるのには違和感がある。書いている時の私はまったく私ではない。確かに同じ身体が書いているが、書いている時だけはいつも別人であるような気がする。それはYouTubeを見ている時の自分や散歩している自分、働いている自分とは全然違う。書いている時の自分だけはそれらの自分と繋がっておらず一線を画すのである。書き終わって、一息ついた時にやっと「現実の自分」に戻るのだ。「ふぅ書いたな」と思いはするが、書いた内容などまるで覚えていない。見返してみても、他人が書いたような気がする。本当になんでこれで五十回も続いたの?

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