底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

本当の自分は本当にないの?本当に?

本当嫌になるわ

「本当の」或いは「真の」という言葉は実に悪魔的である。それはどんな時も私を誘惑してくるのに、決してハッキリ姿を現さない、尻尾すら掴ませてくれないくせに、「ある」という感触だけを心に残していくのだ。

 

 

本当の自分は本当にないの?

「本当の自分」「真に生きるべき理由」そういった謳い文句はたいてい馬鹿にされる世の中である。「そんなものはない、今ここにいる自分こそ本当の自分だ」などと簡単に吐き捨てられる。今ここにいる自分が「本当の」自分なら、「本当の」自分は結局あるじゃないか、と私は重箱の隅をつつきたくなるのだが、そんなことは置いとくとしても、「ない」と納得することはやはり私には難しい。直感に反するのだもの。地動説と同じである。そうだとは知っていても私にとっては天の方が動いているのである。地動説は知識としてはわかっていても、そうであるとは直感できない。「本当の自分がない」方はおまけに地動説のような学術的根拠さえない。そんなものをどう信じろというのか、私にはあるとしか思えない。

 

 

本当の自分、本当はあるやろ

だからと言って、別に私はそれを探して旅に出たりはしない。「本当の」自分が世界のどこか遠くにあるとは思っていない。ただ今の自分を常に「うーん、どこか違う」と思い続けているだけである。なぜ違うと感じることができるのか、それは端的に「本当の」自分があるからだろう。「本当の」自分という基準があるからこそ、自身の不足などを自覚できるのではないか。「本当の」という言葉に抵抗があるなら「理想の」と言ってもいい。この場合の意味は同じである。今ここにいる自分はいつもどこか違うのだ。それは優しさが足りないとか、もっと自分にストイックであるはずだとか、そういった違いではない。そういう類の違いは、単に「本当の」自分を逃げ場としているだけである。私が言っている違いは、まさに「どこか」違うのだ。違うことはハッキリ分かるのに、どこが違うのかはさっぱり分からないような違いなのである。「どこが違うのだろうか」と一生思考し続けてもきっと答えはでない。「本当の自分」など決して姿を現さないのだから。しかしそれならと思考の放棄を試みても無駄である。姿はないけれども「ある」という感触は残っているのだから。例えそれが幻覚でも私には関係無い、天が動いて見えるということが私にとっては全てである。

 

 

ゲシュタルト崩壊や、本当って本当はなんだっけ?

「本当」は「本当」の自分なんてありませんと言われても、私には全然説得力が感じられない。「本当」を使わずに「本当」の自分ががないことを証明してくれよ、だってないのでしょ?

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