底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

十代の頃の自分は最強だった

まだ十代気分

うわぁ後十五分で年を越してしまう。きっとこの記事を書いている間に越してしまうと思うので、とりあえずあけましておめでとうございます。もう二〇二二年か。全然実感が湧かないな。未だに私は二〇十五年くらいを生きている気がしてしまう。たぶんその時から成長が止まったので、まだ十八歳の気分なのでしょう。おめでたい奴ですね。

 

 

私は最強だった

もし現実に「本当の自分」なるものが存在するなら、私は間違いなく十代の頃の自分がそうだと言うだろう。二十五歳の今でも別に私は私なのだが、なんというか今の私がやっていることのほとんどは、十代の時に自分が持っていた感覚や考えていたことの延命とか発展なのである。だから今でも二十代になった自覚があまりない。十代の頃、私は間違いなく最強だった。何と比べてとかどんな基準でとか、そういう野暮な問は一旦小道にでも置いといて、とにかく私は最強だった。その最強感を失わないことは私にとってとても大切である。失ったらきっと私は私でなくなってしまう。なんとなくそう感じるのである。

 

 

最強感忘れていませんか

世間をまだ知らないから、社会にまだ出ていないから、十代の頃の最強感はきっとそんなことに由来している。だがそれは別にその最強が無知による偽物だということにはならない。むしろまだ知らないからこそ、何とも比べていないからこそ、却って真実たり得るということもあるだろう。社会に出てからやることの多くは生きていくためのものだが、人生とはそのような営みが全てではない。生きていくために必要なこと以外をやるのも、人生にとって大切な時間である。その大切な時間を大切にできるかどうかは、今まだ十代の頃の最強感が残っているのかによって変わるのだろうと思う。あの頃はガキだった。黒歴史。みんな通る道よね。そう考えているのなら、あなたはもう立派な大人側だ。

 

 

生きていくことには意味も理由もないし、どうせ死ぬのに、ほとんどの大人は全くそのことに触れないで、生きていくために必要なことだけをして毎日を生きている

最強感。見方を変えれば、それはただの反抗期や厨二病である。だが私にとっては端的にそうではない。十代の頃私は紛れもなく真実を見た。自分が知っているその真実を周りの大人達はみんな知らなかった(知らないフリをしていた?)。その真実を私は未だに信じている。だからこそ、こうしてその真実を告白するためにも、私は文章を書いているのかもしれない。自分が当時抱えていた真実とは「人はなぜ生きていくのか」という疑問の直感であり、その問には如何なる答えも用意されていないのだという恐怖である。十代の頃の私はそのことから目を背けなかった。そのために、私は間違いなく最強であったのだ。

 

 

あけおめ?よいお年を?

二〇二二年も弊ブログをよろしくお願いいたします。皆様よいお年を〜(大遅刻)

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