底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

書くことがないついでに恥ずかしいを閃いた記事

書くことがない(n回目)

書くことがないと思いながらぼーっとパソコンの前に座っておよそ三十分、一向に何かが出てくる気配がないのでもう諦めて、書くことがないということを書こう。書きたいことがまるでないわけではない。例えば私は最近もっぱら「恥ずかしい」ということについて考えている。人は主に褒められた時とやらかした時に恥ずかしいという感情を抱くように思うが、なぜその二つなのなのだろうか。およそ真逆ではないか。その二つの共通点とは一体何だろうかと考えているのだけど、全然未だに答えを出せていないので、一つの記事にできないでいるのだ。




努力不足

何も内容がなくたっていいじゃないか、というような記事さえも、もう両手の指では数えられないくらい書いてきた気がする。それだけ書くということは、もちろん逆に「よくない」からである。よくないからこそ、それを正当化しようとして「いいじゃないか」と何回も書いているのだ。全くよくないのだ。なぜなら書くことがないとは、書くことを引っ張り出せないの意味であって、そのまま書くことがないというのではないからだ。つまり引っ張り出す努力を怠ったからこそ書くことがないのである。自分や世界という存在の謎を考えれば、そこには書けることが常に無限に溢れているのだから。




実際どうなるのかは神しか分からんけど

二十五歳の今、よく考える。もしかしたら、このまま歳を重ねるにつれて自分はますます世の中に慣れて行ってしまうのではないだろうかと。生きているというそのことにすっかり馴染んで、もはや生きることにとって有益であることしか考えられなくなり、何かを不思議に思えるような視点をどんどん失っていくのではないか。「そんな年頃もあったな」と今の自分を振り返り「あの頃は若かった」なんて言葉が口をついて出るようになる。今の自分から率直な感想を言えば嫌だなと思う、そんな年のとり方はしたくないなあ。




どう思いますか

このブログをずっと続ける限り、自分の変化に対しては常に敏感であることができるのでまぁ大丈夫だろうとは今は思っているのだけど、人生がいつどうなるかは分からないから、分からないですね。もしかしたら、自覚がないだけで今もうすでに半分くらいはそうなっているのかもしれない。ひぃぃそうなのだとしたらとても恥ずかしい。自覚がないというそのことが恥ずかしい。……あ!そうか!恥ずかしいってつまり、自覚している自分と実際の自分のズレを感じた時に抱く感情なのでは!?褒められると恥ずかしいのは、自覚している自分はそんな大それた存在ではないからで、やらかした時に恥ずかしいのは、自覚している自分はそんなミスをする人間ではなかったからではないだろうか。さぁどうですかね。