底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ブログのこちら側にいるしかないのは寂しいなという話

後味が悪い

このブログでは常に自分を飾らず、心の根っこの部分から掘り起こして書いているつもりなのだが、それでも書き終わる度に「あぁ今日も書けなかった」と残るしこりみたいなものを毎回感じている。最近少しだけその正体がわかった。たぶんそれは自分の存在そのものなのだ。「ブログに自分の全てを書いた」と書いたとしても、書いた当の私はやはりブログのこちら側にいる。自分の存在の、良く言えばかけがえなさ、悪く言えば融通の利かなさが足枷となって、私をどこにも行かせてくれないのである。書いても書いても自分の存在を書き表せないって、もしかして私すごく奥行のある人間なのかな()。




最後に残る自分をどうにかできる存在はない

同じようなものが自己否定や自己肯定、要するに自分で自分に何かをするという時にも働いている。自己否定は否定する方の自己と否定される方の自己に分かれるので、結局否定する方の自己を否定することはできない。その自己まで否定しようと思ったら、また新たな否定する方の自己を作り出さなければならず、そしてそれは無限に繰り返される。自己否定も自己肯定も最後に残されたその自己はどうすることもできない。だからこそ、どちらの行為も行った後には一抹の虚しさを感じさせる。




伝わらなさ

言葉は変換装置であって、トンネルのようなものではない。何かを言葉にすれば、その何かがトンネルを通りそのまま聞く人や読む人の元に届くのではなく、まず言う方書く方の言葉にするという行為で一回変換され、聞く方や読む方に届く時に二回目の変換が為される。だから「自分」なんて言葉はまず相手には通じていない。私が言っている自分と、二回変換されて相手の手元に届いた自分とでは、もはや全く言葉に込められた意味が異なる。私は言葉にする前の「これ」をこそブログに置いておきたいのに、いつもむしろそれだけが置き去りになって、その周りが言葉となってブログに載ることになる。




伝わらなさを伝えたい

その自分はドーナツの穴に似ている。実体はないけれど、確かにある。それだけをつまみ出すことはできないが、周りも合わせると見ることができる。同じドーナツの穴を覗くのだとしても、こちらから見るのとあちらから見るのとでは全然景色が違ってしまう。そんなものをどうしたらブログに載せられるのか全く分からない。だから、悪あがきとして如何にそれがブログに載せられないものであるかを書いてみた。この伝わらなさが誰かに伝わっても、結局現実は少しも変わらず自分はブログのこちら側にい続けるしかないので、本当に悪あがきなのだけれど、でもやっぱり伝わったらいいな。

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