底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

死にたいはもはや親友

廃人爆誕

本来出勤だったのだが、今日はお休みになった。よって今週は四連休である。四日も連続で休んで、私はいよいよダメになった。ブログを書くことが疎かになり、眠るのはついには朝の八時になってしまった。精神も腐った生ゴミのように「死にたい」としか繰り返さず、頭はずっとボーッとする。これが廃人というやつか。これで明日働くってまじ?社会復帰できる気がしない…。今は外に出てきた。無理やりにでも体を動かなければ、そういう危機感に駆られて、近所のスターバックスに駆け込んだ。

 

 

そうだったわ

そうだ、私死にたいんだった。近頃忘れていた感情を今日は久しぶりに思い出した。ブログを書き始めてすっかり生活が充実してしまい、長いこと忘れていた。まぁ私の死にたいは絶対に戯言であり、行動に移すことは一切ないのでその辺は心配ないのだが、久しぶりに精神から「死にたい」という声を聞いた時、私は感動を覚えた。「あぁこれだよこれ、これが聞きたかったんや」、まるで追っているアーティストの出した新しい曲が自分の好みにピッタリハマった時のような高揚感があった。私は、私が死にたいと思うような気持ちでいる時、本当に心の底から落ち着くのである。死にたい気持ちはまさに私のホームと言ってもいい。ただいまぁ!

 

 

人生は虚しい

人生とは大変虚しく、それでいて絶対に救われない。虚しさは時間的にも空間的にも常に充満しているのであって、そこから逃れる術は得てして一時的な誤魔化しでしか有り得ない。それが今まで生きてきて、私が人生に対して出した結論である。そして、この結論が覆ることはないと私は確信している。「死にたい」声は私にとって、人生の虚しさを直感していることを意味する。事実を直感し事実に基づいて生きているという感触は誠に気持ちが良い。

 

 

もう親友の域

病的だ、と思う人もいるかもしれない。自分でもその自覚はなくもない。だが私という人間はどこまでもそうでしか有り得ない。これは精神を病んでいるのでは決してなく、私の常態なのである。この気持ちとは、もうかれこれ十年くらいお付き合いをしている。ただ充実していると時々忘れるだけであって、「死にたい」と思う方が消えるべきだと思ったことは一度もない。

 

 

人生に死ぬ価値なし

私の死にたいは人生の虚しさによって、仕方なく零れたものであるから、死にたいという言葉に死にたいという意味はない。この四文字はもはや「シニタイ」という別言語である。人生はその虚しさ故に、私にとって死ぬ価値すらないのである。

 

(これから少しの間、実験的に毎日投稿をやめ投稿できる時に投稿するというスタイルに挑戦してみます)

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