底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

結局死にたいだけの人生

死にたい

死にたい。人生でそれ以外を本気で思える人、私は心の底から尊敬する。とてもじゃないが私には無理だからである。朝起きて、あーあ死にたい。昼ごはんを食べて、あーあ死にたい。夜ベッドについて、あーあ死にたい。基本的な私の毎日である。もちろんそれ以外のことも考えるには考えるのだけど、死にたいと思う以外のことは、ただ生きているからなんとなく浮かべているだけに過ぎない。

 

 

死にたくないのが普通なんですか?

なぜ世の中で死にたいと思う人はこんなにも少なく、そして、なぜ大抵の死にたいは病気扱いされるのか。幼少期から疑問に思っていることである。人生は死に向かうだけのものであり、死んだらそれで終わりのものであり、それ故に何の意味もないものであるのは何よりも明らかな事実ではないか。それなのになぜ多くの人は明るく愉快に、或いは懸命に力を振り絞りながら、人生を生き続けられるのだろう。それとも私にそう見えているだけで、本当は違うのだろうか。本当は誰しも私みたいに死にたいと思いながら、しかし死ぬ理由さえ持てずにただ毎日をやり過ごしながら生きているのか?いやいや、やっぱりそれはないな。だってそうであるなら、死にたいが病気扱いされるはずなどないのだから。

 

 

死を超えられるものって何がありますか?

電車に乗っている時、人の多い場所にいる時、ここにいる誰しも、あと百年もしないうちにみんないなくなってしまうんだと考えることがある。それは未来のことではあるが、覆すことのできない紛うことなき真実であるだろう。多くの人々にとってそれは虚しいことではないのか。それともその虚しさを超えられるだけの、私にはない何かを人々は持ち合わせているのだろうか。そうであるなら非常に羨ましい。

 

 

無駄な拘り

それだけ死にたいなら死ねばいいじゃん。これは私が一番私に思っていることである。でも自らに死ぬということは、意志をもって生きつづけることと同じくらい、或いはそれ以上に人生の存在を肯定していることになり得よう。人生には生きる価値がないのと同様に、死ぬ価値もやはりない。ただ今「たまたま」生きているから私は生きているだけに過ぎない。どうも私は人生に価値がないことを証明したいがためにその辺に拘っているらしい。もちろんその証明にだって価値はありはしないのだが。

 

 

たったそれだけ、されどそれだけ

生まれて生きて死ぬ。人生はたったそれだけである。たったそれだけなのに、人はその中を本気で一喜一憂し、本気で歯を食いしばる。それらは私にとっては端的に眩しいものであるが、普通の人々にとってはただそれが普通の人生なのだろう。はぁ。私は一体どこで道を間違えたのでしょう。え?生まれた時からですか?

f:id:kabiru8731:20211220015602j:image