底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

仕事は自分じゃない

1

私は仕事というものにお金が貰える以上の価値を見い出せない。やりたい仕事なんて全然ないし、働かずに同額のお金が貰えるなら絶対に仕事なんかしない。情熱はないし、やりがいとかそういうものも感じたことはない。ただお金が貰えるので、お金が貰えるくらいの責任は果たそうと、そういう常識的な感覚があるだけである。お金がなきゃ生きていけない。だからお金を得るための手段として働く。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

2

例えば仕事をしていて、人の役に立てて嬉しいなと思う瞬間は確かにある。また以前よりもできることが増えて楽しいなという瞬間もある。でもそれはそれだけである。だからこの仕事が好きだとはならないし、だから自らに働きたいとも全然思えない。瞬間的な快は瞬間的な快でしかなく、それ以上の意味を持つことはない。

 

 

3

大人になると仕事は自分の代名詞のようになる。初対面の人に聞かれることとして、名前と年齢のその次くらいの頻度だろう。なぜそんなに人が何で生計を立てているのか気になるんだ?と私なんかは不思議に思うのだけど、きっとみんなの思う仕事が私の思う仕事よりも重要な位置にあるから、とは想像がつく。みんなにとってそれは単なる生きる手段ではないのだろう。誇りをかけるような、アイデンティティであるような、少なくとも他者に語るための自分として、くらいには自分自身の中心に据えている人が多いのかな。

 

 

4

仕事は私の人生の課題を何一つ解決してくれない。どれだけ仕事に打ち込もうと、どれだけ人の役に立てようと、どれだけできることが増えようと、私はいずれ死ぬ。その死の前で、仕事は私に何をくれる?何もくれはしない。それはむしろ逃走にしか映らないだろう。これだけの仕事をしたのだから、これだけ人の役に立てたのだから、これだけのことができるようになったのだから、私には生きた意味があったに違いない、とでも言いたいのか?…まさかね。それは確かに他人にとっての自分の生きた意味かもしれない。だが自分にとってはどうだろう?それで、だから死んでも別にいいって本気で思えるのか?いくらなんでも欺瞞が過ぎるよ。その欺瞞にもはや気づかなくなるくらいの人生を、人は幸福な一生と呼ぶのでしょうけど、お前の人生の目的が幸福でないのは、もう言うまでもないだろ。逃げるなよ。仕事に人生を食われている場合か。さっさとやることをやれ。はい。ごめんなさい。やりますやります。仕事に負けずに書きますよ。書けばいいんでしょもう。

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