底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人に向ける二種類のすごい

二種類のすごい 

すごい人をすごいと思う時には二つのパターンがある。悔しさの伴うすごいと悔しさの伴わないすごいである。前者には自分もそうなりたいという思いがあり、後者はそもそも自分と比べてすらいない。個人的に人をすごいと思っていると言えるのは前者だけである。後者は女の子の言う「可愛い」くらいの意味しかないからだ。

 

 

なりたくはないすごい

私はウサイン・ボルトイチロー菅首相もすごいとは思うし、VRのようにその人生を体験できるのならしてみたいとも思う。しかしそうなる為の努力は一ミリだってしたくない。もちろん努力したところでなれるわけはないが、思い的に「なりたい」という気持ちがそもそも欠如しているのである。だからこそ悔しさを感じないのであり、すごいなんて言葉をなんの抵抗もなく口にできるのだ。この場合のすごいは、圧巻の景色を目の前にした時に言うすごいと似ている。

 

 

なりたくてしょうがないすごい

一方で私は文章を書くのが上手な人、考えが多角的で深い人、真理にとても近づいている人にはすごいと思いつつとても悔しい思いを抱く。クッソなんでこの人はこんなにもできるのに私には全然できないんだと落ち込むし、丸裸にして分析してやるという意気込みも瞬時に抱く。なぜなら私は心の底からそうなりたいからである。だから既にそうなっている人が羨ましくてしょうがないし、そうなれていない自分が惨めでしょうがない。自分がそうなれるかなれないかの能力的な話を思慮する間もなく、悔しい思いが何よりも先行するのである。

 

 

努力するしかないと悟る時

そういう人こそが私にとっての本当のすごい人である。すごいと認めるのが悔しい、尊敬してしまうのが悔しい、憧れてしまうのが悔しいと感じる時、私はその人と自分の間にある差は努力であると確信しているのである。もちろん実際は才能の違いかもしれないし環境の違いかもしれない、だがそんなことはもはや関係ないのだ。私にはもっと努力するという道以外に進める道などないのだから。

 

 

本当何言ってんだろ

悔しさが伴わないのなら、それは端的にそうなりたいとは思っていないということなのだから、すごいという言葉はただのお世辞か、その人の才能や運に向けられているか、虹などを見た時と同じで現象として賞賛しているだけである。つまりはその人を「人として」すごいとは思っていないのだ。ある人を心の底からすごいと思うなら、それはその人を人としてすごいと思っていないのであり、逆に素直にすごいと思えないならそれはその人が自分にとって人としてすごいからである。すごい人はすごくない、すごくない人はすごいのだ。うーん、何言ってんだろ。

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