底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人生は苦しいと考えている方が良いと思う

人生は苦なり

生きていることは苦しい。そのことが人々の共通認識であれば、苦しさを克服しようとする行為や苦しさと共に歩みを進めていこうとする行為、つまり生きているというそれだけで、それは自然と称賛され得るものになるだろう。自分の目の前にある障壁を乗り越えること、それを抱えながらにして生きていること自体が尊いものであり、例え結果的に惨めな人生に終わったとしても、努力した、生き抜いたという姿勢だけで、それは褒められたものとなるはずである。なぜなら、苦しいことが当たり前であり、苦しさはどうにもならないということがそこでは普通であるからだ。

 

 

人生が苦でないなら

逆に生きていることは苦しいことではない、生きていることは何の苦難もないような淡々としたものだということが共通認識になれば、生に苦しみを抱えている人のその苦しさは、多くの人に同情してもらえるようなものを抜いては、自己責任へと成りかわるだろう。「普通は淡々と生活を送れる」ということが前提なので、それができないのは個人の努力不足である、とそう結論付けられる他ない。生まれながらに人生に苦しみを抱えている人は、それを乗り越えてやっと普通になれるのであり、それを乗り越えられないことは劣っていることで、何かが欠けているのだということに必然的になってしまうのである。

 

 

苦しくなければ

生きていることが苦しいのでなければ、生きていくことはただの自然現象である。人生の流れが人々の望むものであればあるほど、ただ流れに従っていればいいということになるので、生きることは必然的にその価値を失いただの現象へと還元される。逆に流れが人々にとって苦しみであるなら、人は生きているだけでその流れに逆らっていることになる。そのために、生きていることに価値が生まれる。

 

 

苦しいのが当たり前、そう考えた方が幸せじゃね

生きていることそれ自体は苦しみであり、幸福や悦びは、努力でどうにかするものではなく、奇跡によって偶然自分の人生にやってきたりやってこなかったり、普通はやってこないものだ。不幸な人、苦しみを抱えている人は努力不足でそうなっているのではなく、何かが欠けているのでもない。ただそれらを必死に抱え懸命に生きている人である。苦しみは人生のデフォルトであり、それを取り払うこと突破することは勇気と努力がいる大変に素晴らしいことだ。だが普通はそれができないのであり、できるのが「すごい」のであって、できないことは誰のせいでもない。人生なんて最初から生きるもんじゃないけれど、それでもわざわざ生きている。そのような前提があってこそ、生きることはそれだけで価値になり得るのである。

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