底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

なりたいものなんかなくてもいい

ないのが普通

何かになりたいと思わなくなって五年くらいが経とうとしている。学生の時は随分と何かになりたかった。なれない自分を嫌悪していた。何もなりたいものがないのは良くないことで、大人は皆完璧に何かになっているのだと勘違いしていた。二十五の今ならはっきりと分かる、そんなのはほんの一部の天才にしか許されていないことなのだと。残りの九割九分の人は何にもなれない、何にもなれないまま生きて、何にもなれないまま死んでいく。それが普通の人の人生だ。

 

 

頭おかしいよ

何にもならなくても生きていけるんだ。そう知ってから生活はだいぶ楽になった。何かにならなきゃいけないのに何にもなれないと抱えた悩みも、何かになろうとしてやっていた必死な努力も全てがアホらしくなって徐々にやめていった。そのおかげで見事このような底辺人間が爆誕した。うーん実にめでたい。いや、まぁ、底辺になったのは予想外だけど、でも幸せなのでOKです。何かになるのをやめた私は次に「自分はどういう人間であるのか」を考えることにした。今でもこれをやっている。かれこれ五年くらい続けているが、未だにまるで分からない。強いて言うなら分かったのは頭がおかしいということくらいか。

 

 

羨ましい≠なりたい

何にもなりたくはなくなったが、誰かのことを羨んだり、誰かの生活がキラキラして見えたり、そういうのは今でもある。働かなくてもお金に困らない人、センス抜群の文章が書ける人、真理の探究に命を懸けられる人、食べても全然太らない人。正直に言ってめっっっっっちゃ羨ましい。できればそうなりたいと思う自分もいなくはない。でも、もうそれは「できれば」なのだ。ここでのできればは「自分のままで」そうあることが可能ならそう「あり」たい、という意味だ。自分のままでなれないなら、なれなくていいや。それくらいの軽い気持ちで「なりたい」を見られるようになったのである。

 

 

自己探求には終わりがない

なりたいものがない。それは別に悲観するようなことではない。何かに無理やりならなきゃいけないなんてこともない。何にもならなくても、人は普通に生きていける。そして肝心なのはどれだけ強く「何か」になりたいと願ったところで、そんなのは大抵叶わないということだ。だってその「何か」が空欄であるのだから当然だろう。その空欄を埋めようと思ったら、まず自分は今どう「ある」のかに注目しなければならない。しかし、これこそ出口のないトンネルである。少なくとも私は五年かけてもまだ出られていない。なんとなく一生出られないだろうなという確信もある。でも、それでいいんじゃないかと思う。それがいいなと思う。

 

 

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