底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

努力は世界にあらざるを得ない

言葉の定義から

「努力も才能だろ」という論争をしばしば見かけることがある。こういう論争は大抵埒が明かない。その原因はほとんどの場合、言葉が明確に定義されていないためだろう。何をもって努力とするのか、何をもって才能と呼ぶのか。それを確認しないことには、そもそも自分が何を主張しているのかすら曖昧である。努力が事実才能なのかどうかは一旦置いといて、まずは言葉の意味を考えてみる。才能という言葉が努力と対で語られる時、それは何を意味しているのかと言えば、生まれつきのもので後天的には変えられない本人の意志などとは無関係にただ与えられたもの、ということだろう。だからそれに対する努力としてはもちろん、生まれつきではなく後天的に本人の意志でどうにか左右できるもの、という意味になるはずだ。従って、こう言い換えられるだろう。才能の否定として、才能の余白を埋める形で努力という言葉があるのだと。もし才能を打ち消す役割で、生まれつきではなく後天的にどうにか変えられるものをこそ努力と呼ぶのなら、努力を才能に含めることはできない。なぜなら、それが言葉の定義だからである。




事実より成立条件

問題は遺伝子などの事実がどうなっているのかではなく、そもそもの物事の成立条件、構造としてどうなっていなければならないのかにある。もし将来的に何らかの方法で努力も百パーセント才能だと証明されたとして、我々の何かが変わる可能性はあるだろうか。それで才能だから仕方ないと少しの悔しさも感じることなく目の前の課題を無視できるのだろうか。それで日々コツコツ積み重ねを行って成果を出した人の頑張りを良心の呵責なしにただの才能だと一蹴できるのだろうか。




形は人それぞれ

努力とは常に才能の外側にある言葉であって、何かの具体的行為を指しているのではない。他の人のように頑張れないからといって、それは別に他の人には努力の才能があっただけだとか、自分は努力できない人なんだとかの意味を持ったりはしない。自分の努力は他の誰とも違う形をしているのだということをまず理解するべきだ。
shikouzakki.hatenablog.com





努力教は棄教できない

全部が才能なのだとしても、人には「そう思う」能力がない。そのことが全てを物語っているであろう。例えそれが全く事実に即していないただの信仰だとしても、人は努力教を棄教できない。才能の対称として、そう言葉が存在しているからだ。その限りで、どんなに努力を才能だと線引きしても自分の中にモヤモヤが残るであろう。さぁ今日も頑張りなさい。頑張れない自分がいるのなら、言い訳などせずに自分が頑張れていないのだと素直に認めなさい。事実がどうなっていようと、そういう声から逃れられはしない。努力が実際に才能の内にあるかどうかなんてことは問題にならないのだ。そもそも構造的に努力は才能を越える形で世界に「あらざるを得ない」のである。