底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ワクチンのレポをするつもりでした…

ワクチンの話をするつもりだったんだけどな…

ワクチンを受ける病院に今ついたところである。待合にいる間、私はやはり自分の人生について色々考えていた。別にワクチンが危険と言うつもりはないが、結局個人にとって接種することの結果は二分の一の確率なのである。つまりは生きるか死ぬか。このワクチンで死んだら、ついついそういった想像をしてしまう。ここで死んで悪くない人生だったなと、私心置き無く言えるかしら。あまり自信がない。

 

 

ワクチンの話どこ?

どうなったら私は死んでもいいな、と思えるのだろう。どうしたら私は人生に満足し、なんの気がかりもない状態になるのだろう。生きている限り無理なのではないか?だって私の人生の究極の目標はやっぱり真理を知ることなのであるから、そしてそれは決して叶わないとはっきりわかっているのだから。他のおよそ全ての満足は欺瞞を孕んでいる、もう私はそのようにしか人生を捉えられない。真理に迫れるだけ迫った、私にはここまでしかできなかった、私にはその満足の仕方しか残されていないのだろう。だがこんなの満足とは呼べないであろう。それこそこの上ない欺瞞である。

 

 

だからワクチンの話は?

真理を追うものに、人生の満足は訪れない。なんとなく私はその事を察していたが、あまり考えないようにしていた。だってどうしようもないということだけははっきりしているからである。満足できないからと言って、それ以外の道を歩む選択肢などない。他の道は更なる後悔を撒き散らすだけである。さて、ワクチンを打ち終わった。気分や体調が急激に悪くなることもあるから、十五分はそのまま会場にいる必要があるそうだ。とりあえずまだ死んでいない。私は今、死ななくて安堵しているのか、死ななかったのかと残念に思っているのか、正直自分でもよく分からない。人生の虚しさが私を死へと追いやるのに、真理の輝きが私を生に縛りつける。その間で私はいつも死にきれず、生ききれない。

 

 

うーん、なんの話?

すぐ隣に赤ん坊を抱いたお母さんが座っている。すやすやと眠っているその赤ん坊の尊顔を見て、私はかつての自分を想像する。自分の赤ちゃんだった頃という言葉には酷く違和感を覚える。赤ちゃんであった時の「その子」は確実に「私」ではなかったのだから。私はいつから「私」になったのだろう。いや、いつからその子は「私」としてあり始めたのだろう。

 

 

やっぱり思いとか考え以外を書くの私には無理なんだな

ワクチンのレポを書くつもりが結局いつもの調子になってしまった。今のところ腕が上がらない程度で他に異常はない。生死なんて大げさな想像を巡らせた甲斐はなかったけれど、ないに越したことはないであろう。つまるところ私はやっぱり生きていたい気がする。

f:id:kabiru8731:20210915201825j:image