底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きていることより大切なものはあるがそのために死ぬ価値はない

死ぬ価値はあるか

生きていることより大切なものってあるだろうか。命より大切で、命を賭してでもやる価値のあることってこの世にあるだろうか。あ、命を失ったらもうこの世じゃなくてあの世か。あの世行きになっても構わない。そういう覚悟は大変に素晴らしい。私の価値観で言えば、人生に対しては常にその覚悟を持って臨むべきだ。だが、実際に自分から死ぬ場合はどうだろう。命を賭すのでなく命を自ら捨てる。そうする価値のあることがこの世に存在するとは私には思えない。なぜなら、その時には価値を受け取る私が既にあの世だからである。価値とは常に「私にとって」の価値であり、その私を失うということは、つまり価値の受け取り手を失うことである。それは価値があるない云々を支えている土台そのものであるから、価値それ以前の話なのである。

 

 

自分に死後なんてものはない

自分の死後の周りの反応を想像し命を捨てる。未来予測ができる人間にしかなせない技と言える。死んだら自分はもういないという当たり前は誰にとっても自明であるはずなのに、そのことはしばしば忘れ去られる。死んだら復讐になるはずだ。死んだら後悔してくれるはずだ。そのように想像をするのは人間にとってある意味で自然なことである。だが実際に行動に移せば、その想像をしていた私自身が消えることになるのだから、残念ながらその行為は無意味なものとならざるを得ない。

 

 

全部虚しいから大差ない

人生は生きる価値がない。なぜなら生は一方的に与えられたものであり、そして自分はいずれ必ず死にゆく存在であるからだ。それ故に当然死ぬ価値もない。いずれ必ず死ぬ。自らに死ぬということはいずれくるその死をほんの少し早めただけに過ぎない。その事に意味を感じるならもちろん後は個人の自由だが、人生の形式から考えれば、やはり虚しいことだ。死を持って何かの意味を世界にもたらしたかったのなら尚更である。

 

 

生きているから大切

生きていることより大切なものは確かにある。しかし、その大切は生きている「から」大切なのであり、どんなものであっても、その枠を飛び越えることは出来ない。自分の今抱えている苦しみを解消する。死ぬことはせいぜいそんな意味しか持ち合わせていない。それもかなり強引な手段と言える。例えるならテレビのある番組が不快だから、テレビごと壊してしまおうというようなものである。最終手段としては悪くない。チャンネルをかえるなりテレビを消すなり、それら全てが有効的でない場合には、使ってもいいのかもしれない。だがやはり、最後の最後までとっておきたいものだ。放っておいてもいずれ必ず壊れるのだからね。

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