底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ブログから考える人生の意味

回り回ってると信じたい

夜中の三時にブログのたった一文の言い回しがどうしても気に入らなくて、何度も考えては書き直している自分、冷静に考えると本当なにやってるんだと思う。朝から仕事もあるのに、どうせ気になっているのは自分だけなのに、書いては消して書いては消して、振り返ると頭おかしいとしか思えない。誰得なのこの時間。本当誰も得していない。誰も得してないけど、でも誰も得をしていないというそのことが、きっと回りまわって私の得になっているのだろうと思う。というかそう信じたい。およそ他の誰のためでもなく、他の何のためでもない、ただ自分が満足するために何かをやる時間って人生にとってすごく貴重で価値のあるものではないだろうか。

 

 

生活するだけが人間ではない

人生の八割は生活である。ほとんどのことが明日生きるための準備であったり、或いはもっと遠くの未来のために行われている。それはそれでもちろん大事なことであるが、人間として生きるということはそれだけでは足りない。人はただ生活のサイクルを回すために存在しているのではない。精神や知性があることの意味はきっともっと他にあるはずだ。それは端的に言えば、自分や世界を知るためのものだろう。そのような営みは決して生活には役立たないけれど、でも大事なことである。

 

 

人生の意味は受動的にはない

自分や世界を知れば知るほど、それらは何か言葉では言いようのない不思議な存在であることを実感する。自分があることも世界があることもただただ大きな謎であり、どちらも理の内にはないのだとはっきり分かった時、人生の意味も決して受動的にはもたらされないと気づくであろう。つまり、大きな謎が解けない限り、人生の意味は自分の手によって創り出さなけば、他のどこからも生まれる余地はないということである。では肝心のその創り出し方は一体なんなのかといえば、自分という人間をよく知り都度望みを叶えて満足させる、以外にはないだろう。

 

 

お前の場合ほぼ毎日だから困るんだよ

自分の望みは何なのか、どうしたら自分は満足するのか、それは何かひとつの物事に長く向き合うと分かってくるようになる。まだ三百日程度だが、このブログを書いてきての私の経験則である。向き合う時間が長ければ長いほど、その物事はまるで自分の映し鏡であるかのように、私のことを正確に教えてくれるようになる。今までここに積み上げた全ての記事が私を判断するための材料となるし、今こうして書いている時の態度からも色々自分に対する思考を広げることができる。自分を満足させることは人生の意味を創り出す。そのために土台であるところの生活を犠牲にしていたら本末転倒かもしれないが、人生には少しくらいそんな時間があってもいい、いやあるべきだと思うのだ。

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