底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

書いていくうちに答えが見えてきた

漠然とした「よい」

「よい」ものを書きたい、そう思うのは逃げだろうか。ここ何日か呪文のように私の頭の中をぐるぐるしている「よい」の正体が一向に掴めないので、書きながら整理していきたい。

 

 

私は何がしたい?

まずは原点から確認しておく。私の原点はブログ名にもある通り、記録を残すことである。そして、記録においての「よい」とは事実や私個人の真実がそのままに記されることに他ならない。だが最近の私はどうもその「よい」を目指したいのではないらしい。その「よい」は既にある程度できているという自負を持っているからだ。でもそれじゃあどんな「よい」を目指しているのか?と自分に問いかけても、答えが全然返ってこない。だから本当困り果てている。

 

 

正解はなんだ?

キレイで読みやすい文章を書きたい?論理が整然としている文章を書きたい?美しくて芸術点が高い文章を書きたい?言い回しや展開の仕方が面白い文章を書きたい?どれを自分に問うても全然しっくりこない。全然しっくりこないのに「よいものを書きたい」という一文がずっと頭に張り付いている。本当なんでなんですか?私。

 

 

確かに

そもそも話があべこべなのかもしれない。普通は先に目標があって、「よい」というのはその目標を達成できた時に使う言葉なのだから、目標自体を「よい」にしていることは変である、と言えるのではないか。しかしだとしたら、私が思っているこの「よい」は一体何ものなんだ?

 

 

あ、これか

冒頭で「逃げだろうか」と書いたのは、この「よい」が偽物である可能性があるからだ。つまり、もう書くことから逃れたいので「よい文章を書けない自分は書く資格がない」のような自己正当化をするために、よい文章を書きたいなんてほざいているのではないか?という可能性である。今この記事を書いてきて思うに、この説が一番濃厚だな。ここだけやたらすらすら書けたからである。

 

 

書くことは考えること

何かをつくる時、先に「よいものをつくりたい」と思うのはまことによくないですね。今回身をもってそれを知ることができた。「よい」は常に過去に対して使われるべきであり、未来に対しては具体的な目標が必要である。また、未来に向けて漠然とした思いだけを持っている場合はそれが逃げではないか?としっかり吟味してみた方がよさそうだ。そして今回この記事を書いて一番勉強になったのは、書くことはめちゃくちゃ考えることに役立つということである。この記事を書かなかったらきっと私はまだまだ「よい」という言葉に囚われ縛られていたに違いない。こうして書かれた文章にいかほどの価値があるかはわからないが、少なくとも私は書いてよかったと心の底から思う。たとえこれがよい文章でなくとも。

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