底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

「真の」は完全に自分の価値観であることは忘れないようにしたい

人の生き方はおおざっぱに分けると二つ

以前の記事で人の人生の目的はありのままに生きる権利を求めることだと書いた。

shikouzakki.hatenablog.com

このことにおいて、人の生き方はおおざっぱに分けると二つに分かれるように思う。一つは権利をひたすらに追いかける生き方である。お金があれば、家族ができたら、夢を叶えられたら、そのものを手に入れたらありのままに生きられるという「そのもの」をただ次々に求めるのだ。これは今の社会では一般的な生き方であろう。少なくともそれらを手に入れられた人は多くの人から羨望の眼差しを向けられているのは間違いない。もう一つの生き方は、権利とは幻想であり、自分は「既に」ありのままであるのだと気づこうとする生き方である。ありのままとはあるがままなのであって、自分の人生は最初からそれ以外のものではありえないと心の底から自覚することを目指すのである。この二つはつまるところ、同じ穴の狢と言える。目指していることはどちらも冒頭にあげたことで、ただ目指し方に違いがあるだけである。

 

 

五十歩百歩

要するに「ありのままに生きることはできるが、まだその権利が私にはない」と考えるか、「権利なんて必要なく、私は元々ありのままに生きているが、まだそれを充分に自覚できていない」と考えるかの違いに過ぎない。どちらの考え方も元をたどれば「人生はありのままに生きるべきだ」という価値観念に辿りつくのは明白であろう。ところで世の中には実に多くの人が、同じ価値観念を持っているにも関わらず、その目指し方の違いで争っている。面白いですね。

 

 

それしか選択肢がなかった

私は完全に自覚を目指す方の生き方をしている。だが別にこの生き方を正しいと主張するつもりはない。ただ私にはこの方が合っているというだけである。自分の乏しい想像力で想像する限りで、これを手に入れたら私はありのままに生きられる!と思えるような「これ」が全く頭に浮かばないのだ。だから仕方なく、自覚しようと努力する方に落ち着くしかなかったのである。

 

 

目くそ鼻くそ

この二つは「人生には生きる価値があるが、私はまだその価値を手に入れられていない」と「人生には生きる価値がないが、私はまだそのことを自覚できていない」の対立であると、とることもできる。これも「価値さえあれば」と「価値さえなければ」の違いであるのだがら、価値を中心に回っているという点では全く同じであると言える。

 

 

自戒のための記事でございやす

どちらかを「真の生き方」と思った瞬間に事態は歪み始める。そこに正解と不正解が生まれるからである。その生き方以外で生きている人を真実を見定められない人と決めつけて、どんどん歪みの深くへと嵌ってしまうことになる。そうならないように自戒もこめてこの記事をここに置いておこう。

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