底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人生は権利の争奪戦

人生は権利の争奪戦

人生はつまるところ権利の争奪戦なのではないか。今日の突然の閃きである。人間の本質に欲というものがある。人間である限り何かを欲することはやめられないのだし、欲するということが人間の根源的な活力である。では人間は一体何を欲しているのだろうか。

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以前こんな記事を書いたことがある。食欲も、承認欲求も、およそありとあらゆる欲は自己実現欲であると。この自己実現欲を最近よく考えていたのだが、自己を実現したいのは要するに自己のままに生きていたいということなのではないだろうか。いや自己のままに生きていてもよいと言える権利がほしいということなのではないか。

 

 

自己実現の正体

自己実現をしたいのはまさに今の自分をありのままの自己ではないと思うからこそであろう。今ある自己ではなく別の自己を欲する。それは、その別の自己の方が「よい」と思うからである。そして自己においての「よい」とは、より理想的で自分に相応しい自己ということに他ならない。その自己を手に入れることができたなら、私は"ありのまま"の自己として生きていける、"ありのまま"の自己として生きていくことが許される。そういう思いが自己実現欲の正体であろう。

 

 

状態と権利

しかし自己のままに生きる、それだけなら人は常にやっている。誰しもただ自分として生きているのであり、それ以外のことをすることはできない。自分として生きているということが各人にとって世界の、人生の全てである。だがそれだけでは人は満足しないのだ。なぜなら人が欲しているのは決して、ただ自分として生きているという「状態」ではないからだ。ただ自分として生きているという状態ではなく、ただ自分として生きていてもよいという「権利」を欲しているのである。状態と権利の違いはズバリ自分でそう思えるかにある。ありのままの自己で生きている状態にあっても本人がそう思えなければ、権利はないのである。

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

奪っているのも奪われているのも結局自分

全ての欲が自己実現欲であり、自己実現欲が"ありのまま"の自己として生きていてもよいと思うためのものなら、人生の目的とは権利を得ることに他ならないだろう。冒頭に書いた争奪戦は他人と戦うという意味ではない。争奪する相手はもちろん自分である。常に今の自分の権利を剥奪し、未来の自分に託し続ける、本質的に欲を抱えている人間はそのようにしか生きられないのだ。たとえ、権利がない理由が"ありのまま"の自分が手に入っていないからではなく、単に自分でそう思い込んでいるだけだとしても関係ない。人にはそのことを心の底から納得する術がないのだから。自分から奪い続けるしかないのである。

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