底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

未来はなるようにしかならない

未来は決まっていないが決まっている

自分の未来は既に運命によって決まっている。そう思ったり考えたりしたことはあるだろうか。私は何度もあるし、実際にその通りであると思う。何かの形ある運命を信じているわけではないが、ただ未来には常に不可変的側面があることは確かである。人生はなるようになる。逆に言えばならないようにはならない。「なる」の内容は確かにある程度は自分のコントロール下にある。例えば今目の前にある一杯のコーヒーを飲むか飲まないかくらいの自由は私に与えられているだろう。しかし一体そのどちらが未来にあるのかは、今の私にはどうしたって知り得ない。いずれそのことが今となり、そしてやがて過去となってから、初めて私はその結果を知ることができる。つまり、未来は過去という不可変的なものとなって初めて私たちの前に姿を表すのだ。その意味で未来は「決まっている」と言えるのではないだろうか。

 

 

運命と自由は共存できる

全ては運命によって決まっているということと、人に自由があるということは別に矛盾する事態ではない。自由があることも運命によって定められているのだとすることが可能だからである。運命はその外側に存在し、そしてただそこに佇んでいる。運命があるからといって、私達の生活の何かが変わるわけではない。運命は決して私達には干渉しない。なら、そんなのないも同然ではないか?いや、そうではない。なぜなら、運命がないとはどういうことかを、そもそも私達は理解することができないからである。

 

 

ただそうなっているから

未来は多くの可能性を含んでいるが、しかしやがて必ず一通りとなって今を通過し過去となる。それが運命が存在するというそのことである。数多ある可能性の中で何か一つのものだけが現実となって、自分の目の前に現れる。なぜそれだけが選ばれたのか、なぜ他の可能性は淘汰されたのか、はっきりと説明のできるものはそう多くはない。ほとんどは「ただそうなっているから」としか言いようがない。視野を広くし世界そのものを想像すれば、それがよく分かるだろう。なぜ世界は存在したのか、なぜ全ては端的な「無」でなかったのか。

 

 

やる気ないだけやん

「私の人生こうなる運命だったのかもしれない…」何か嘆かわしいような出来事に出会った時、人はしばしばそのように自分の人生を振り返る。だが運命でないことなど、そもそも人生には存在しないのだ。人は極たまに現実になる可能性を選べるだけであり、そしてそれさえも実は運命の中で行われているのである。だから、今こうして私がブログを書いているのも運命であり、投稿が当然のように遅れているのもまた運命なのである()。

f:id:kabiru8731:20220127004243j:image