底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

意志と責任の立ち位置について

どっちも正しい

生まれることは選べない、だから生きていることに自由意志やら自己責任やらを求められるのはお門違いだ。心の底からそう思う一方で、人生は自分の意志で責任を持って進めていかなければ始まらないというのもまた事実である。つまり意志と責任は、持たないでいることは全く正しいが持たなくてはいけない、持つことの方には何の正当性もないのだけど持たなくては人として生きていくことができない、そのようなものとして存在しているのではないだろうか。




限定された自由

自分の人生は自分が発生させたものではない。気づいたら「あった」。だから自分にその一切の責任を負う義務はない、この主張はやはりどこまでも正しい。発生した時点で、何をするか意志によって「選択のできる」自分があったのだから、責任はその人自身にある、というような反論は成り立たない。なぜなら、選択は最初から制限されているからだ。生まれることは極めて受動的であるのに、死ぬことを受動的にしようと思えば死刑が下されるような罪を犯さねばならない。生まれる家庭も国も選べないのに、その家庭や国から脱出しようとするのは並大抵の努力では叶わないし、運が悪ければ殺されることだって有り得る。人は何もかも自由であるわけではない。限定された自由の中に突然放り出されて「さぁあなたは自由だ」とは、所詮ただの綺麗事なのである。




みんな一緒

しかし、人生とはやはりその限定された選択肢の中から選ばないことには何も始まらない。限定された自由の中に突然投げ出されたのは人間皆同じであるわけだから、それは誰のせいにもできないのである。納得できないなら、新たな選択肢を発見するか創り出すか、それが無理なら現状に納得できる方法を探るか、そうして色々な方向に模索しながら、少しずつ選択肢を増やしていく。人はそのようにしか生きていけないんじゃないかな。




「実際に」責任があるのではない

そして、人間とは群れて生きていく生き物であるのだから、責任がないというのは集団的に大変困ったことになる。選択はあるのに責任がないのであれば、誰しも人の迷惑を考えず目的への最短の道を選ぶに決まっているのだから、お互いのために、巡り巡っては自分のために、人は自身の選択に責任をとらなければいけないのである。だがこれは「実際に」責任があるということを意味してはいない。責任とはつまるところ、人間同士の口約束のようなものであるから、自分が死ぬくらいに責任に追い詰められている時なんかは、可能な限り逃げてもいいのだ。生まれることは自分が選んだわけではないし、限られた選択肢の中で最善を尽くしたのなら、後はもう神にでも捨て置くしかないのである。

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