底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人は目先の未来しか分からない

私は焼肉が食べたいですね

明日の晩御飯は何を食べようかと考えるのは容易い。一週間先になってくると今は決められないよという気持ちになる。一ヶ月後ならもう考える意味すら感じられなくなる。今から離れていれば離れているほどその未来と今をリンクさせるのが難しくなっていく。当たり前である。人には予定を立てる力があるといっても、それが当てになるのはせいぜい今の近辺だけで、遠ざかれば遠ざかるほど、曖昧になりはっきりとしたことは言えなくなる。だってまだ未来がどうなるか分からないのだから、それを踏まえないと何かを決められるはずもない。

 

 

結局分からんのよ

だがこの未来は分からないということは全体的に甘く見られがちなのだと思う。所詮は今の延長線でしかないと捉えられていることが非常に多い。それはそれでもちろん間違いではない。言葉の定義の通り、未来とは「まだ来ていない今」のことであるのだから、そもそも未来とは今の延長線以外ではありえない。しかしやはりそれだけなのである。延長線であるということからは結局未来の内容は何も言えはしない。未来は常に膨大な可能性に満ち溢れている。どんな未来になるのか、それはやはり神のみぞ知るところである。

 

 

分からないのは当たり前

未来に対する漠然とした不安はつまりこの不透明さから来ているのであろう。一体自分の将来はどうなるのか、どんな未来が待ち受けているのか。それを全く見通せないから不安に思う。もしかしたらすごく悪いことが起きるのかもしれない。何かの災難が突然ふってくるのかもしれない。分からないから逆についつい色々思いを巡らせてしまってどんどん不安が加速していく。だがしかし未来とは「分からない」が本来なのである。分からないのが当たり前で、分かることの方が奇跡なのだ。人間は「たまたま」近い未来に起きるであろういくつかの現象を予測したり、事前に決めておくことのできる能力を与えられているに過ぎないのである。

 

 

まーじで焼肉が食べたい

未来は分からないとはっきり分かる。だからこそ線引きができる。見通せないのも不安を抱くのも当然であり、それらもきちんと加味した上で今の自分の人生を考えればいいのである。直近の自分の手で決めていける分の未来だけを見つめる。それが一番堅実な生き方だろう。分からないものはいくら考えたって分からない。一ヶ月後のご飯を今決める必要がないように、何年先の未来だって、今結論を出さなくてもいいのである。人生は逆算などできないのだ。「いつ死ぬのか」という逆算のスタート地点でさえ、それがどこにあるのかを我々は知り得ないのだから、目先の、明日のご飯を考えているくらいで丁度いいのである。

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