底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

やわな人間が増えていくのは悪いことじゃない

その通りだけどそれは当たり前のことだ

昔の時代に比べ、根性や忍耐力がない人が増えたという言説を見かける機会は多い。これは自分の肌感覚としても、まさにその通りだと感じる。時代が進み豊かになっていくにつれ、そうなっていくのは必然とさえ思える。昔にとってみれば酷く豊かで恵まれた環境であっても、最初からそこに生まれてきた世代にとっては、それこそが当たり前になるのだから、当然その環境の中で更に豊かさと過酷さの区分がなされる。過酷さのレベルは時代を追うごとに緩く軽くなっていくに決まっているのだ。だが、最初からそこに生まれてきた世代にとって、それは依然リアリティのある、ずっしりとした重みを持つ過酷さなのである。

 

 

淘汰されてかまわない

耐える必要のある過酷なことが緩く軽くなっていくのは端的にいいことであろう。それに伴って一人一人の耐える力が弱っていくのも、個人的には別に大して問題のあることではないと感じる。それは時代に沿った自然な変化であるだけに過ぎない。根性や忍耐力なんてものは、それが目的達成の手段として有用的な場合にのみ良いものとされるのだから、そのもの自体に価値があるのではないことは自明である。目的達成の手段として有用的でなくなって、もっと楽な方法が上位互換として世の中に登場し流通しているのなら、端的に淘汰されてかまわないだろう。

 

 

そしたらより自由にもなる

どんな時代も、前時代の過酷さが排除された環境の中で更に豊かさと過酷さの区分がなされるということは、人の尺度のメモリーはどんどんと細かくなっていっているはずである。つまり、より物事を細かく分類する。これは端的にいいことだろうと思う。物事が細かく分類されればされるほど、認識は正しいものへと近づくのだから。

 

 

存在からして滅びゆく運命

耐えないと生きていけない時代から、耐え抜いた人だけが得をえられる時代になり、そして、最後には耐えて何かを得るというそのこと自体が馬鹿らしいものとなって、自然淘汰される。時代は常にそのサイクルで更新されていく。人は自由に向かって走らずにはいられない生き物なのである。不自由である環境を耐えねば、自由が手に入らないというその矛盾はこれから先も解消の方向へと進み続けるだろう。忍耐、我慢、辛抱、そういうものは存在からして徐々に滅びゆく運命なのである。個人にとって、そんなものはしなくて済むのならそれに越したことはないのだから。耐える力が弱っていくのは全く悪いことではない。それは社会がその分豊かになったということであり、人間が自由と正しさに近づいている証でもある。

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