底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

相対主義と絶対主義のお話

埒が明かない戦いの始まり

「人それぞれで考え方が異なるのだから、その人にとってある事が正しいのであればそれは正しいのだ」とAが言った。それに対して「いいえ、世界には絶対的な正しさがあり、その正しさこそが誰にとっても正しい事なのだ」とBは主張した。そこでAは「それがあなたにとって正しいのなら正しいことだ」と言い、Bはそれを受けて「だから、あなたの意見は間違っている」と返答した。その上でAは「それがあなたにとっての正しさなのね」と応じ、Bは更に「これは普遍的な正しさである」と受け答えをした…。つづく。

 

 

相対すると相対する

自分が相対主義者である場合、絶対主義者と相対(あいたい)したら、一体私は主義の名の元に相対主義と矛盾する絶対主義は間違いであると主張するべきなのだろうか。それとも、相対の名の元に相手の絶対主義をも相対化して見るべきなのだろうか。主義として掲げる以上は矛盾する相手を受け入れられるべきではないであろう。しかし相対主義的にはやはりどんな主義であろうと相対化してしまうのが正しいはずだ。逆に自分が絶対主義者である場合に、相対主義を前にした時、私はその相対を絶対と相対(あいたい)し得る絶対的なものとした上で、それに反論するべきなのだろうか。それとも、相対は相対である故に絶対にとってはそもそも取るに足らない存在なのだと、軽く受け流すべきなのだろうか。

 

 

口を噤む必要がある

どちらも後者が正しいように思う。相対主義者が相対が正しいのだと他人に向かって主張すれば、それは忽ち相対主義に反することになる。逆に絶対主義者が絶対が正しいのだと他人に向かって主張すれば、それは自らに絶対主義と対等な主義があるのだと認めることになる。両者は己の主義が正しいと思えば思うほど、それを他人に向かって主張してはならない。正しいと思えば思うほど、ただ黙って主義を遂行するべきなのである。

 

 

同じになる

相対主義者が絶対をも相対化し、絶対主義者が相対をそもそも相手にしない時、二つの主義は矛盾することがなくなる。相対主義者にとっては全てのものが相対的に存在しており、絶対主義者にとっては絶対だけが絶対的な存在だからである。つまり、相対主義者が相対を絶対的なものと見なし、絶対主義者が絶対以外を全て相対化する時、二つの主義は完全に相入れる存在となる。そうなれば、両者はたぶんお互いの主義が正反対であることにさえ気づかない。というか、その時にはもう二つの主義は「同じ」だと言ってもいいのではないだろうか。

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