底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

何に基づいて生きればいいのだろう

真実と事実

真実というのは常に自分自身にしか分からない。どれだけ言葉を尽くして他人に語ろうとも、その真実が他人に伝わることは決してない。なぜなら、自分は他人でなく他人は自分でないからである。私にしか見えないものがあるから私は私であり、他人にしか見えないものがあるから他人は他人である。真実の反対に事実というものがある。事実は公共のもので、真実が言葉にのせられないのとは逆でこちらは言葉にのせる必要性がない。それは私達の認識の方でなく、世界の側に根差している事柄だからである。定義によりそれは最初から誰にとっても同じである。しかしそうは言っても、人は認識を通してでしか事実を見られないので、「真の」事実は誰にも知り得ない。日常における事実とは、つまるところ「これを事実とする」と人々によって決められたものに過ぎない。真実は伝えられず、事実は知り得ない。はて、そしたら人は一体どう生きたらいいのだ。

 

 

賛同したい

今のところ私は、事実は知り得ないので自分の胸の内にある真実に基づいて生きるべきだ、という意見に賛同したい気持ちが一番強い。真実は肌で直に感じているわけだから、それは決して誰にも否定され得ない。他人に何を言われようと「でも、私はこう感じるんだもん」となるために、真実は生き方の最強の根拠なのである。しかしそれはあくまで賛同「したい」に留まる。なぜなら、やはりそれだけではいけないと感じるからだ。真実に基づいていればどんな生き方も肯定されるのか?と問うてみれば、その答えは明らかにNOである。

 

 

世の中の事実

「真の」事実は知り得ないけれども、世の中で事実とされているものはあるのだから、それに従って生きるべきだ、という意見には半分は同意できる。実際私は半分そうして生きている。問題は、ある事が世の中で事実とされているけれども私には全く事実に思えない時、或いはたとえそれが事実だとしてもそんな事実はクソ喰らえと思うような時が確実に存在するということである。それでも世の中で事実とされていることを優先すべきだ、と言うなら「なぜ?」と私は問いたい。

 

 

人は正しく生きられない

「真の」事実に基づいて生きる。たぶんそれが最も理想である。そうすれば誰の生き方も例外なく正しい。だが現実においてそれは叶わないので、人は自分の中にある真実と世の中にある事実に頼って生きていかざるを得ない。しかし真実は他人には伝わらないし、世の中の事実は所詮世の中の事実に過ぎない。他人を顧みず己の真実を突き進むか、世の中の事実のために己の真実を捨てるか。きっと、そのどちらとも正しくない。

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