底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

偏見についての私の偏見

偏見は根深い

アニメを見ていた。そこに派手なスーツを着て金のネックレスをつけた七三分けの細い目をした猫背の男が二人のボディーガードを連れて登場した。私はあぁこの人は悪役なんだとなと思った。結果としてそれは当たっていた。制作側もたぶん登場時点でそう思ってもらいたいと狙っていたのだろう。いやしかし、偏見とは根深いものだなあ。それはあまりに自然だった。ブログのネタとして自分の思いや思考を書いているから、たまたま後になって気づいたけれど、普段ならたぶんそれを気にも留めていない。きっと「やっぱりな」と思うだけで終わっていただろう。

 

 

当たっても偏見は偏見

無根拠で、あるものに対して何かしらの私見を抱く。偏見とはその全てを指す。結果的に正解したからといってその枠から外れるわけではない。偏見が当たっても、それは偏見が当たったというだけのことで、そのことによって自分に何かしらのものを見抜ける力があると思うのは偏に勘違いである。だから、心に留めるならセーフだが、声に出して言うのは本当に恥ずかしい。

 

 

偏見はつなぎ

偏見の唯一の正しい使い方は警戒だ。根拠はないけれど危なそうなので逃げる避ける。根拠なんて確認している間に取り返しのつかない事態になる可能性があるので、これは致し方ない、最悪を回避するためだ。だが、それ以外で偏見に基づいて行動するのは誤りである。理由なんて言うまでもなく、当然無根拠だからだ。偏見を抱くのは、予測の機能が備え付けの人間にとって避けられないことである。印象や感触からそのものの正体を予想し(つまりは偏見を持ち)、だんだんと予想と実際が合致していく過程を人は理解や学習と呼ぶ。偏見は言わば生贄だ。それはいずれ根拠が見つかり、あるものに対する正しい態度が決まるまでのつなぎに過ぎない。

 

 

偏見に妥当性がある時代(?)

本来はそれだけのものである。しかし今や人は人に狙った偏見を抱かせることができる。偏見はもうみんなのものだ。二人のボディーガードを連れ、派手なスーツを着て金のネックレスをつけた七三分けの細い目をした猫背の男を悪役だと思うことはもはや常識であり、むしろそう思わないことにはストーリーの展開についていけないように話が作られている。ある種の偏見にはもう妥当性が認められているのだ。勘違いさせるような格好をするのが悪い。偏見を持たれるような言動をするのが悪い。現実ではそんな事態にまで発展している。これは驚くべきことではないか。だって偏見ですよ。偏見に妥当性があるのですよ。みんなが同じ偏見を抱くという理由だけで。根拠も何もないものなのに。

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