底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

正常はどのように決められるべきか

正常を決めるのは?

ある人が正常であるかどうかの基準はいかにして判断されるべきか。一般には「社会生活を送ることに支障があるかどうか」だろうか。他人と問題なくコミュニケーションできるか、人と同等の働きが行えるか、多くの人と同じような善悪観を持っているか、そんなとこであろう。つまりは「大多数とだいたい同じである」ということが大事であるわけだ。しかし、この計り方には肝心な問いが欠けている。それはもちろん「大多数は何故に正常であると言えるのだろう」である。

 

 

事実から出発してみる

その足場をなくし正常を最初から問い直す場合、一体どのように考えるべきか。事実から出発してみる、というのはどうだろう。事実に基づいた行為を正常、事実の曲解または勘違いを元にしている行為を異常とする。案外悪くない気がする。少なくとも「大多数とだいたい同じである」よりは根拠があって素晴らしい。何が真の事実なのかという問題は残りはするが、だからこそ、まさにそれを思考し続け絶えず問うことが正常であるのだと言うことができる。

 

 

変だよ

「大多数とだいたい同じである」このことをもって正常とする。私的にはどうしてもその判断の仕方を受け入れられない。確かに歴史的に見れば、世界はずっとそのように進んできたのかもしれない。だがやはりそれは変であろう。変であるからこそ、マジョリティの様相は時代ごとに変化してきたのではないか。「〇〇が正常とされているなんておかしい」そう考える人がいつの世にもいたから、世界は少しづつ変容してきたのであろう。

 

 

意味のある問とない問

自分は正常なのだろうか。そう問うことには意味がある。そのことによって、私は自分の行動を改めたり、自分の今の立ち位置を知ることができるのだから。今の世の中は正常だろうか。そう問うことにも意味がある。そのことによって、私は世の中に対しての自分の確かな態度や生き方を決めることができるのだから。だが、目の前の他人、特に危害を加えてくるのでもない他人に対して正常であるかと問うことには全く意味がない。他人は変えられないものである上に、他人には他人の価値判断がある。自分にとってその人が正常であっても、正常でなかったとしても、だからなんだ、という話ではないだろうか。

 

 

単純な問題ではない

社会の大多数と違うから異常、社会の役に立たないから異常、社会に適応できないから異常。そういう判断基準って、それこそすごく病的だと思う。社会それ自体が異常であるということもあり得るのだから、社会の大多数のみを判断の基準に据えれば、見方は必然的に偏ることになる。人にとって何が正常で、何が異常であるのかは、そんな単純には決められないことであるはずだろう。

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