底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きる意味があることないこと

1

自分とは本質があるような存在ではない。本質みたいなものはあるかもしれないけれど、はっきりきっぱりばっさり本質だと言い切れるようなものはないのである。何があれば自分は自分であるのか、何を失えば自分は自分でなくなるのか、そんなの、誰にも分からない。その分からなさが人に生きる意味やら価値を求めさせる。生きる意味とはつまり、それがあれば自分は自分であると思える何か、である。実際には本質がないから、代わりとして自分の思いの上に本質を打ち立てたいのだ。それがあれば自分は自分であることができるものが何か分からないから、それがあれば自分は自分であると「思える」もので、その蓋をしていきたいのである。

 

 

2

私の場合もうそれは結構はっきりしている。一つには書くことであり、一つには考えることである。この二つを欠いても、もちろんそれでも私は生きていける。けれど、そんなにつまらない人生はないと思う。考えることは私だけが見られる世界の拡張や解像度を上げる行為であり、書くことはそれを再び世界に戻して残していく行為である。私は私だけが見ている世界を他の誰かに届けることには、それなりの価値があると信じている。なぜなら、私自身過去にそうして他人の世界に触れることで救われた経験が何度もあるからだ。

 

 

3

「思える」ものが何も見つからず、自分は空っぽで、生きている意味がないという人がいる。そんな人は決まって自分の人生を悲観している。生きている意味がないとはつまり、それがあれば自分は自分であると思えるものが何か分からない、見つからないということなのだろうが、これはしかし本当に悲観するべき事態なのか。だって実際ないのですよ。分からない、見つからないというのは、その実際にとても忠実な生き方ではないか。もし生涯を通してその実際に忠実な生き方を貫けたのなら、そんな素晴らしい一生はないと思う。決して幻想で蓋をせず、真実だけを見つめたということなのだから。

 

 

4

その意味で、私は既に幻想に縋ってそこに蓋をしてしまった側だ。でも正直信じられる幻想に出会ってしまったのなら、それはそれでもうどうしようもないのだと思う。単なる開き直りかもしれないが、幻想を消す方ではなく、そのまま現実にしていく方の道しか、もはや私には見えないので致し方ない。たとえ幻想なのだとしても、もう後戻りはできない。死ぬまでやるしかないのだ。そうしていくことでやっと、私は私であり続けられる。