底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分を否定する自分はどうするのが正解なのか

どっちだろう

自己肯定感が高いとは「自分を否定している自分」が出現した場合に、それ自体を更に否定して徹底的に戦うことなのだろうか、それとも「自分を否定している自分」さえも肯定しその全てを受け入れることなのだろうか。これ結構悩ましい。そもそも自分を否定している自分が出現しないのが自己肯定感が高いことである、というのが本当のところかもしれないが、それには一旦目を瞑ろう。そうであるなら、自己肯定感が低い人が自己肯定感高くあることは一生できなくなってしまうから、それには一旦蓋をしよう。自分を否定している自分がもう既に目の前にある前提で考えるなら、一体どちらの方がより自己肯定感の高い行動と言えるのだろうか。




否定しても何も解決しない

前者は否定という行為をしているので、その点においては後者に負ける。しかし否定している対象は否定している自分であるから、一概に前者が方法として間違っているというのも早計である。否定されたのでとりあえず一回防御としてそれを否定し返すことは、そのまま無抵抗に受け入れるよりも、むしろずっと精神衛生的にはよいことであるはずだ。問題は否定をしても、否定しているところの対象が何かよい変化を遂げることはありえないだろうということである。いくら否定したところで否定されている対象が消えて無くなるなんてことはない。否定によって更に悪い状況に入ることはあっても、何かが解決されることは期待できないのである。




全てを肯定するとは

後者は否定さえも包み込むので、その点においては前者に勝っている。しかし否定さえも肯定することは本当に肯定と言えるのかと考えると、それなりに疑わしい。否定を肯定することは、つまり否定に加担しているのだと捉えることも可能であるからだ。全てを肯定するというのは即ち、全てが否定されているような状態でさえも含めて肯定することであるから、それは結局何もしないのと同じである。何かを否定することなしに存在している肯定などクソの役にも立ちはしないのだ。




自己肯定感は本当に存在するのか

じゃあ結局どうすればいいのかと問いたいところだが、こういうものには得てして公的な正解がないのがこの世のお決まりパターンである。何が正解なのかは自分の頭で考えろ。そう言いたいのだろうな。自己肯定感というものの存在そのものから考えてみた方がいいのかもしれない。本当にそんなものはあるのだろうかと。自己肯定感が低いから〇〇ができない。できないのは自己肯定感が低いせいなんだ。自己肯定感が高ければ私だって。そんな分岐が本当に自分に用意されているのだろうか。用意されているのなら、どうして「今」それを選ばないのか。はたまたそんな選択肢は、はなから存在していないのか。

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