底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ブログは自分を多少マシにする

ブログは救い

死の焦りがあるのに、相変わらずの今を生きていて、そのことにもっと焦りを覚える。今日も全然無に近づけなかったことにビクビクして、死にたくないと思いながら、今こうしてブログを書いている。この時間だけは少し気が楽である。なんとなくありのままの自分をここに記録できたと思えるからかもしれない。このブログは今や私にとって自分を肯定するためのものである。今日も一つの記事を書けた。今日も一つの考えをここに残せた。その小さなことが私の誇りを形成しているのだ。一日にこれだけやれば、後の自分を少し肯定できる。ブログは私にとっての救いそのものである。




道標

どうしても肯定できない自分がいる。どうしても認められない自分がいる。こんな状態で死んだらと思うだけで怖くてたまらない。死ぬこと、ただそれ一つでさえたまらなく恐ろしいのに、加えて無念の死を迎えてしまうのだと考えると、もう頭が真っ白になってしまう。一体どうしたらいいのだろう。どうしたら、少しでも無に近づいて、少しでも自分を認めていけるのだろう。このブログがそのことに対する唯一の道標である。なぜかブログを書いている時だけは、「あぁ今なら死んでもいいかも」と瞬間的に思えたりするのだ。




ブログを書くために生きている(ことにしたい)

ブログから私の生活を見渡す時、その全てが記事を書くための材料となる。日常のほんの些細な出来事から、存在や世界に対する突然の閃きまで、何もかもがこのブログのネタとして浮かび上がる。言わばブログを書くために生きている状態ができあがるのだ。肯定できない自分も、認められない自分も、ここではただネタの一つとなる。大変素晴らしい。ブログを書くことによって、私はどんな自分も肯定していけるようになるのだ!




多少マシ

自己肯定とはつまり、全ての自分を無理に認めることではなくて、何か一つだけでいいから認められる自分をつくって、それを広げていくことなのだと思う。矮小で卑劣な自分さえも、ある一つの目的のために存在しているのだと感じられたら、自己嫌悪も多少はマシになるだろう。もちろん全てがよくなるということはない。どんなに生きることを目的のための手段に変換しても、辛いことは辛いし苦しいことは苦しい。矮小さも卑劣さも、それに対する意味づけは変えられるが、姿形までは変えられない。本当に多少マシになるだけである。でもその多少マシの微々たる差が大いに自分を救うこともある。どんな自分であろうとも、私にはこのブログがある。どんな自分であろうとも、それをここに綴っていけばいいのだ。