底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

表現は結果的な形式の一つ

こぼれ落ちるもの

人は誰しも常日頃言葉を使い自身に関する色々を表現している訳だが、言葉というのは自分が生まれる以前に既にこの世にあったのである。つまりはそれは使い古されたものであるから、世界に未だかつて存在したことのない自分を表現するのには少々力不足なところがある。だからいつも言葉からは何かがこぼれ落ちている。表現し損ねたものが胸の辺りに残ってしまう。芸術が生まれる一因には、ここら辺のことが関連しているのではないかと思う。こぼれ落ちたもののその扱い方を人間はまだよく知らない。とにかくなんとかそれを表現するという方向にひた走っている。

 

 

自分は世界初

言葉からこぼれ落ちているものとは何なのかと言えば、もちろん自分の存在そのものである。存在を言葉に載せることはできない。自分の存在だけでなく存在である限りのもの全て無理なのだ。なぜなら言葉とはことごとく概念だからである。概念は常にいくつかのものの総称であって、個別のものを指し示す能力は持っていない。言葉は目の前の現実には決して手が届かないのだ。ただでさえ存在から距離がある言葉は、自分の場合にはもっと遠くなる。それは冒頭に書いたような理由によってである。個別な存在であるだけでなく、自分はまさに世界初の存在なのだから、たとえ言葉が個別の問題を解決したところで、自分からこぼれ落ちるものは延々こぼれ落ちるしかない。それはどうしたって他の何か、言葉やら芸術やらには変換し得ないのである。だがまさにそうであるからこそ、人は無限に表現していこうとするのだろう。表現してもしても残ってしまうしこりのようなものがずっと胸につっかえているから、その活動が終わりを迎えることはないのであろう。

 

 

自分でも何を言ってるのかはよく分かりません

しかし表現し得ないと最初から知っているのなら、この活動にはもはや何の意味もない。以前も書いたがこれはただの悪あがきなのである。せずにはいられないという欲求に負けているだけで、そこに自分の意志はない。理性ではもう答えは出ているのだ。無理なものは無理なのだから。本当は自分を生きるだけで充分である。表現し損ねるのは、自分「を」表現しようとしていて、自分と表現とを別々のものと捉えてしまっているからだ。そうではなくて、表現しているのもまさに自分であり、表現されているのももちろん自分であり、表現そのものでさえ自分なのである。自分を表現するのではない。自分が自分を生きるのだ。表現はその結果的に為される一つの形式に過ぎない。

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