底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

言葉を書くことは時々恐ろしい

時々恐ろしい

普段は言葉を書くことを好き好んでやっているわけだが、時々とても恐ろしく感じられる時がある。言葉とは相手があるものであり、特にこうしてインターネットに公開しているものは、完全な自己満だとは言い難いく、それ故に他人の読み方に関してもある程度の責任が私にはあるのだと思う。私は私の正しいと思うことを表現しているつもりだが、他人にどう伝わっているかは正直未だよく分かっていない。悪意的に解釈されるのは覚悟の上であるし、批判や反論はむしろ大歓迎である。私が恐れているのは自分の言葉が曲解や誤解されることでも、自分の言論が根底から覆されることでもなく、自分の言葉が「順当に」違う意味を生んでしまうことである。私にそんな「つもり」があるかどうかとは無関係に、読みようによっては違う意味で「読める」文章を書いてしまう。そのことが言葉を扱う上で何より恐ろしいと思うのである。




どちらかと言えば!

私は私がどういう意味を込めてこれらの言葉を書いたのかを説明できるが、その説明以外の受け取り方は全て「誤読」だ!と言える権限は別にない。誤読であるかどうかは偏に言葉の定義によって決まるのであり、私の真意とは違っても、それは私の真意と違うというだけで、誤りとなるわけではない。言葉には一通りの解釈の仕方しかないなんてことは全然ないし、どちらかと言えばそれは一通りの解釈しかできないように文章を書けていない書き手が悪いのである。




肯定も否定もできない

「あなたはどういう意味でこれらの言葉を使っているのですか?」と聞かれた時、それに精一杯答えること、或いは言葉の誤用を指摘された時、それを反省し改めること、言葉を扱う者として果たせる責任はせいぜいそれくらいなのではないだろうか。誤読ではない、単に私の真意とは異なる解釈に関して、私が果たせる責任は何もない。それは私の意図する読み方とは違うと表明するのが限界で、「それでも自分はそういう意味に読めた」と言われたのなら、もう何も返す言葉はない。




人事を尽くそう

言葉の怖いところは、ここにあるのだと思う。こちらにそういうつもりがなくとも、相手がわざと嫌らしく受けとらなくとも、そして、こちらが誤用しておらず、相手が誤読していな状況においてさえも、自分の本当に語りたいことが真っ直ぐ相手に届くとは限らず、違う意味がそこに生まれる可能性があるのである。それはもちろん一つには書き手の技術不足のせいでもあるが、究極においては言葉は人の数だけ解釈が異なるということから考えれば、言葉を扱う人間の宿命とも言うことができる。やはり覚悟しつつ、精度を上げていくしかないのでしょう。