底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

分からないは優しさをつくり出す

他人は分からない

人というのは不可解なものである。その不可解さをあまり忘れてはいけないと思う、とくに他人に対して。他人を分かるなんてことは人間にはどう足掻いても無理である。長い間一緒にいる相手でも、たぶん三割四割分かっていればいい方で、面識のないネットの人やテレビの向こうの有名人ならば、その理解度はきっと一割にも満たない。ある人がある行為をする。その行為がどういう脈略で為されたのか、その行為にどんな意味や思いがあったのか、そんなことはおよそ本人にしか分らないし、時には本人ですらよく分かっていない。親しい人の間でも度々勘違いによって、もめたりすれ違ったりしてしまうのだから、赤の他人の場合には、その推測はほとんど当たっていないと言っていい。




自分も分からない

自分のことでも、よく分かっている人はあまり多くない。完璧に分かっている人なら、たぶんひとりだっていはしない。人は常に変わるものであるし、自分を客観視するのにも限度がある。そもそも何をもって「自分を分かった」とするのかすら定義は曖昧である。他人というのはつまり、そのよく分からない自分を更によく分からなくしたものである。思いや考えが直接頭に浮かんでくる自分とは違って、他人の情報は表情と言葉と身振り手振りのような表面上のものからしか得られない。それだけである人を分かるなんてのはどう考えても不可能である。




他人と自分は別人

他人は自分とは全然違う。共通しているのは人間であるということくらいだ。自分が泣いて喜ぶものが、他人にとっては不快極まりないものかもしれない。自分がなんてことない戯れと思っているものが、他人にとってはひどく迷惑なことかもしれない。自分を参考にして相手を推し量る。これは人間である以上仕方のないことであるけれど、どれもこれも推測の域なのだということは忘れるべきではないだろう。




分かり合えないと分かり合えるかな

ネットに転がっている記事一つで、テレビで放映されたニュース一つで、他人の語る言葉一つで、人は分からない。その人の今まで生きてきた人生、その行為をするまでのいきさつ、何に苦しみ何に喜ぶかまでは、そこには載っていないのだから当然である。自分の人生はその全てを経験してきた自分にしか分らない。他人の人生はその全てを経験してきた他人にしか分らない。人同士は根本において分かり合うことなどできないのである。だが分かり合えないことは、別に悲しいことではない。分からないことは優しさなのだ。他人は自分とは違って、こう思うかもしれない、こう考えているかもしれない、こういう気持ちなのかもしれない。その想像の余地を生むのが、まさに「分からない」なのである。

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