底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ひとりが最高なのよ

ひとりが最高なのよ

ほとんど他人と関わらなくなってよく思うことがある。それは「やっぱりひとりって最高だな〜」ということである。どうやら私は根っからそういう人間であるらしい。別に他人のことが嫌いなわけではないのだけど、ひとりの心地良さには替え難いものがある。第三人称のヒトは大好きなのだけど、第二人称の人が隣にいるとどうも落ち着かないのだ。なんかこう、自分にとっての私であるべきなのか、その人にとっての私であるべきなのか分からなくなってしまうのである。

 

 

自分にそんな価値ない

第二人称と関わる難しさがここにある。「ひとりでいる時はこうする」といったような行為を、人前では気を遣って隠したり変えたりすることはたぶん普通の人なら難なくこなすのだろう。だが私にとって、他人に気を遣って自分の本来の行為を隠したり曲げたりすることは自分の一部を失っている感じがするのだ。他人に気を遣ってまで存在する価値が自分にはないのである。だって生きる目的も理由もなく、ただ生まれてまだ死んてないだけの人間なんだもの。だから逆に他人の前で自分を貫き通す意味もやはり私にはないのだ。気を遣う理由がないのと同じように、わざわざ自分を貫き通してまで存在する価値もやはり私にはないからである。

 

 

 

意味を追い求めることに理由を用意することができない

そのために第二人称と付き合う時、私はいつも両者の間を揺れ動くことになる。どちらもしたくないことであるが、どちらかに着地しなくてはいけない。全く決め手がない選択を都度毎に瞬時に判断し、決定を下さなければならない。そのことが私を酷く苦しめる。一時期やけになってくじ引きのようにテキトーに運任せでどちらにするか決めていたこともあったくらいである。当たり前だが、ひとりでいればそんなことは考えなくてすむ。したいことをするだけであるから、価値や理由などそもそも必要としないのだ。ひとりでこそ私は「ただ生きる」ということが許されるのである。生まれてまだ死んでないだけではあるが、それでも意志を持ち言葉を話せる人間に生まれてしまったために、人生に意味を求め、自分自身であろうとすることからは免れない。だからこそひとりでなんの気兼ねもなく追い求めたいのである。意味の追求は自然的であるのに、他人と関わることでそこに理由が必要になる。その理由を私は用意することができないのである。

 

 

なんでもするとは言ってない

と、ここまで全部私に選択権がある前提で話してますが、どうか見逃してください。「そもそもお前と関わりたい他人とかいねーわ」なんて言わないでください。お願いします。なんでもします……。

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