底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

普遍的な悩みについて

二種類の悩み

悩みには二種類ある。個人的な悩みと普遍的な悩みである。違いは他人が自分と同様に悩んでいなくても、それを不思議に思うかどうかだ。明日プレゼンがある、うまくできるか分からない、向き合いたくない。これは個人的な悩みだ。自分の自信が無いという性格や、プレゼンの内容が不得手な分野であったりなどの、様々な自分固有の要因によって悩みと化しているから、他人がそれで悩んでいなくても全く不思議に思わない。だが例えば、人間は絶対にいずれ死ぬということ、或いは未来はもう既に全て決まっているかもしれないということは、人である限り誰しも直面しているはずの問題である。それらに対して自分自身がありありと悩みを抱えていた場合、なぜ他人はそうではないのかとの疑問が必ず出てくる。これが普遍的な悩みである。

 

 

悩みは全て悩んでも仕方がない

普遍的な悩みというのは得てして理解されない。そんなことをウジウジ考えてなんになるの?と言われてしまうのが常である。確かにどんなに悩んだところで人は死ぬし、どんなに悩んだところで未来が全て決まっているかどうかは分からないのだろう。だから、なんになるの?という問いかけは極めて当然だと言える。しかし悩みというのはそもそも「悩んでも仕方がないと分かっているのに」が前提にあるのではないだろうか。分かっているのに、悩んでしまうのである。それはどんな悩みにしても共通なことであるはずだ。

 

 

べきとの戦い

普遍的な悩みには、個人的な悩みにはない「べき」が潜り込んでいる。死ぬのは自分だけではない、未来が決まっているとしたら誰しもおののくはずだ、皆それに悩むべきだという思いがどうしてもそこに入り込む。普遍的悩みを抱える人はこれをどう解消するかと考えねばならない。それは自分が本来抱えていた悩みよりも深刻な悩みの種となるからだ。どうして他人はそれに悩まないのか、という問いにどうにかこうにか答えを与えていくしかないのである。

 

 

意地のために考える

つまるところ、普遍的な悩みとて個人的な悩みに過ぎない。自分だって普遍的であるにも関わらず悩んでいないということが必ずあるはずだ。なぜ自分が今の悩みを悩んでいるのか、その答えとなるものは何もない。ただなぜかありありとその悩みが眼前に現れているだけなのである。普遍的な悩みに解決は基本望めない。絶対に解決され得ないからこそ悩んでいるとも言えるからだ。しかしだとしたらその悩みに対するアプローチは何が残されているだろう。なぜか与えられただけの悩みを訳も分からず悩んだまま死ぬなんてちょっと悔しい。やはり考えるしかないのではないか。解決のためではなく自分の意地のために。

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