底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

命は軽いからこそ重んじる

命は軽い

命は元々そんなに重いものではない。人は日々何かしらの命を「軽々しく」頂いているのだから、そもそも重いと言える資格もない。命は死んだら死ぬ、それだけのものなのだ。命を重んじる、これは良いことである。容易く奪ってはいけないとする思慮深い態度は、確実に犠牲になる命を減らすことに繋がっていくだろう。だが、命の元々の軽さを、重んじることによって忘れてしまうのはあまり良いこととは言えない。それは偏に真実ではないからである。命はいとも簡単になくなる。いくら重んじても元々の軽さは変えられない。容易く奪わなくても、死ぬ時は容易く死ぬのである。




生きていることは奇跡

死はもっと身近にあるはずだ。死んでいる人間と生きている人間の、どちらの方が数が多いかなどもはや言うまでもない。死んでいる方が生きていることよりもずっと自然なのだ。生きていることが稀なのであり、死ぬことはごくごくありふれた普通の現象に過ぎない。生きていることを奇跡とし、その奇跡を少しでも長引かせたいと思うのは素晴らしい。しかし、どれだけ長くなったところで、死んでいる時間に比べれば、やはりはるかにはるかに短い。どれだけ長くなったところで、生きていることは奇跡でしかないのである。




死ぬことに原因はない

人が死ぬことに原因なんてない。生きているものが死ぬことは最初から決まりきっているからである。死因なんて言葉があるが、それは死に至らしめる最後の「きっかけ」をそう呼んでいるだけであって、それがあるから人が死ぬのではない。どう足掻いても死ぬ、命あるものの宿命である。死は絶対的に必然的に命を終わらせる。だからこそ、命があることは当たり前にはなり得ない。今にもどこかに消えてしまうかもしれない軽い軽いもの、命とはやはりそういう質量なのである。




命を重んじることと命が重いと思うこと

命を重んじることと、命が重いと思うことは全然違う。前者はまやかしであると自覚しているが、後者は単なる思い込みである。命は軽いからこそ、重んじなければならないと思うのは他の生き物に対する贖罪、自然の力に対する畏怖、先人達の努力に対する敬意になり得るが、命は元々重いのだとすることは、それら全てを無下にした態度であると言うことができる。どの命も全くもって当たり前ではない。今日にも死んでしまう可能性を誰しもが持っている。命をそれだけ軽いものであると自覚してこそ、それは重んじるべきものとなる、一日一日を大切に噛み締めて生きていく意味が分かる。簡単に死ぬのに、死んだらもう二度と生きられない。それこそが人生における最も重い事実なのである。

(昨日の記事の公開時間をミスりました…まだ読んでない方はぜひこちらにも。全私が喜びます。)
shikouzakki.hatenablog.com