底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ゆるい雑談に奇跡を添えた記事

ゆるいです

ゆるふわな記事が書きたい気分なので、今日はいつも以上にゆるゆるで行きますね。浮かんだ言葉をただ並べていく感じで。この頃やっぱり書くことって楽しいなと思うようになった。それは偏に書きたいものがあるからだ。頭の中にあるものを外に出して形にしていく作業ってやっぱりすごく面白い。難しいけれど。難しいからこそ、面白みがある。ぶっちゃけ頭で思い描いたものと全然違う形の文章になった記事はいくつもあるが、これはこれで悪くないなと思って普通に公開している。論文を書いているのでもないし、そんなに拘らなくてもいいっかという気持ちで。失敗も失敗の記録にはなるわけだし。

 

 

知らんけどたぶんね

書きたかったものと全然違うものになった。まぁいいか。またいつか気が向いた時にでも再挑戦しよう。そんなスタンスでやっていると「そう!まさにこれが書きたかったんだよ!」って記事が本当にある日突然できたりする。不思議としか言い様がない。だって自分的には別に何も頑張ってないし、何も意識してない。前回それを書いた時の自分から何かが変わったとは思えないのに、なぜか書けた。なぜなのか、全く分からない。たぶんあれだな。理由なんかなくて、偏に奇跡かなんかだと思う。

 

 

奇跡って結構起こるというか

奇跡というものは、言葉の意味には反するかもしれないが、私は結構頻繁に日常的に起きるものだと思っている。辞書で軽く引くと「常態では起こるとは考えられないような事柄」と書いてあるが、そもそも人が考える常態そのものが奇跡に支えられているのではないか。生き物にとっての常態は明らかに死である。生きている時間など死んでいる時間に比べればわずか一瞬にも満たない。今日も生きている、そのことがもう奇跡だ。人間にとっての常態は争いだ。歴史を見れば一目瞭然のことである。平穏な日常がある、そのことがもう奇跡だ。自分にとっての常態とは、さてなんだろうか。そもそも常態なんてあるのかも疑わしい。もしかしなくても存在丸ごとが奇跡なのではないか。さぁ、どうなんでしょう。

 

 

おわり

奇跡で始まったこの世界にそもそも奇跡でないことなど何一つもないだろう。もし、そう思えないならそれは奇跡に慣れすぎて感覚が麻痺しているだけである。何かを見ることができる、何かを分かることができる、何かに気づくことができる。歩こうと思えば歩けて、走ろうと思えば走れる。そういうの全部全部「常態では起こるとは考えられないような事柄」ではないか。だって、どうして自分にそれができるのか、説明できますか。私には全く無理でござる。おわり。

f:id:kabiru8731:20221212065838j:image