底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

私と世界の非対称性

何のところで?

ところで私はどうしてこんなに死にたくないのだろう。後悔や未練を残してしまうから。正解。単に死というものが何なのか分からなくて怖いから。正解。死ぬともう二度とこの世界には帰って来られないから。正解。全部正解。でも一番の正解はたぶん、私が生きていたいからだ。生きていたいから、死にたくない。極めて単純ですね。じゃあ生きているの何がいいかって、そりゃ生きていることがいいんですよ。じゃあじゃあその生きていることってそもそも何なのかって、つまりはそれを考えられるのが生きているってことなんじゃないかしらね。

 

 

寂しい

なら、私は考えられなくなることが嫌だから死にたくないのかと言えば、そうではない。考えられなくなるのももちろん嫌だけど、でもそれ以上にもっと根本的に失いたくないものがある。考えている状態を観察しているところの自分だ。その意味での「見る」ことを奪われるのが最も嫌なのである。私はずっと見ていたい。何を?と問われれば、世界ということになるのかな。だって私が死んだ後も世界は「普通に」存在するのですよね。それってすごく寂しいよ。

 

 

読み返したらメンヘラ彼女みたいなこと言ってるわ

私にとって私の死とは世界の消滅であるのに、世界の方にとってはそうじゃない。世界にとってみれば、むしろ私なんか最初からいなかったも同然な存在である。世界は私がいてもいなくてもただ淡々と回り続ける。既にそのことをよく分かっているからこそ、死にたくないのだ。私が死ぬことは、すごくすごくこれ以上ないくらい重大なことなのに、でも本当はそこには私が死ぬという意味しか含まれてはいないと自覚させられるのがたまらなく苦しい。

 

 

生きてたいな

世界を見られなくなる日はいつか容赦なくやってくるだろう。本当嫌だなあ。世界がこれからどうなっていくかにはさらさら興味ないけれど、見ることだけはずっとしていたい。自分がいなくても世界は回り続けるなんて、そんな事実どう飲み込んだらいいのか、さっぱり分からないもの。死んだら自分は無になることが嫌なんじゃない。世界も一緒に無にならないとはっきり分かってることが嫌なのだ。いや、もっと正確に言うなら、たとえ私が死んだ時に世界が一緒に消滅したとしても、それは「たまたま」に過ぎないのだということが嫌なのだ。私と世界とはその存在の仕方により、絶対に運命を違えるともう決まっているのである。それなのに!私にとってはそうじゃない。私にとっての私の死は、やはりどう足掻いても必然的に世界の消滅を意味してしまう。その埋まらない差がすごく寂しいのである。あぁぁずっと生きてたいな。

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