底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

死を選んでいない事実に目を向けてみる

一旦死にたい

人生の最大の不自由は「一旦死ぬ」ができないことにあると思う。つまり生死の間に選択権がない、死んだら絶対にもう二度と生きられないから、死へのハードルがグッと高くなり、生きることに辛抱が増えてしんどくなってしまう。辛いことがあった時に一度死ねたらどんなにいいだろうか。しばらくは存在を消して、辛さが過ぎた頃にまた戻ってこられるなら、生きることは格段に楽になり得よう。しかしそれはできっこないので、辛さがなくなるまでじっと我慢するか、辛さを抱えながら改善に向けて頑張るか、いっそ死んでしまうかのクソみたいな三択になってしまう。

 

 

一旦死ねたなら

生きることを自分の選択の結果と思えないところに、多くの不幸が成り立っている。なぜ思えないのかは現実的に考えるなら、もちろん産まれることを選べなかったからだが、もし仮に一旦死んでみることができたら、それはもう理由にはならない。産まれることを選べなかったことに対する苦しみは、結局生死を自由に行き来できないからこその苦しみなのである。強制的に生きている。そう思うから不幸を飲み込めずに、その理由を欲しがる。自分はただ産まれて普通に生きているだけなのにを前提に据えて、どうして?なんて問うてしまう。そんなものに答えなどないから、出口が見つからずにますます不幸になっていく。

 

 

みんな生を選んでいる

現実では自由に行き来はできないけれど、人は自らに死ぬことはできる。だがそれを選んでいない理由を考えることは普通しない。生きているのが当たり前だからだ。それ故に死に至りたいと思う方にこそ理由が必要となる。しかし現に死んでいないのなら、やはりそれは生を選んでいるのである。死ぬのが苦痛だからとか、親しい人を悲しませたくないとか、もう二度と戻れないとか、色々な考慮はあるにしろ、事実として現に選んでいない。その理由をしかと考えてみるべきだと個人的には思う。人生を自分の選択の結果として引き受けた方が生きることはずっと楽になるからだ。いやいやいや、引き受けてたまるかという気持ちも大いに分かる。人生の苦しみを決して飲み込まず、理由を諦めずに世の中に求めて、人々の生活環境の改善に勤しむことは大変に尊い行為である。だが、それはどこまでいっても苦しみの正当化であり、消化ではない。苦しみの正当化は世の中を良くするかもしれないが、自分の人生を幸福にはしてくれないのだ。

 

 

自分には甘いのなんででしょうね

自分で選んだものに対して人は究極に甘い。どんな結果になったとしても、自分で選んだのだから仕方ないとなぜか思える。その不思議な力を試しに人生丸ごとに使ってみるのはどうだろうか。

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