底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

理不尽から考える人生についての因果

理不尽に思うのは因果のせい

理不尽には常に「何も悪いことしてないのに」という前提がある。悪いことしてないのに、どうしてこんな酷い目に遭わないといけないのか、どうしてこんな不平等な扱いをされなかればいけないのか、どうしてこんな辛い思いをしなければならないのか、意味が分からない。悪いことをしたのなら分かるけど、何もしてないのだから何か悪い結果が起きるのはおかしい。理不尽だ。これはもう免れることのできない人間の形のような考え方なのだろう。しかし思えば人生はその始まりから大いに理不尽である。人は誰しも、何も悪いことしてないのに突如としてこの世に投げ出されたのだ。




原因の原因の原因の原因…

理不尽の根本にある因果というものの考え方は、今までたくさん人間を救ってきたのだと思う。身近な責任問題から専門的な学問まで、因果は至るところから引っ張りだこである。何かがあるから今がある。因に支えられこそ果が存在する。これは人間の考え方の癖のようなものだが、実際に多くの物事にも当てはまっているだろう。私が今眠くて眠くてしょうがないのは、昨日あまりよく睡眠をとれなかったからである。そのせいで仕方なく今は目を擦りながらブログの執筆を行っている。昨日あまりよく睡眠をとれなかったのは早起きの予定があったにも関わらず夜更かしをしたからで、夜更かしをしていたのは本に夢中になっていたからで、本に夢中になっていたのは興味深いことが沢山書かれていたからで......ってこれどこまで遡ればいいの。




理不尽であるかどうかは未来によっても変わる

因果は確かに多くの物事に当てはまるが、しかし一つ大きな欠陥がある。それは因は同時に何かの果であり、果は同時に何かの因であるという、そのことである。つまりは絶対的ではない、どんなに今を理不尽に思えても、将来的にそれが「このためにあの理不尽があったのか」と消化される可能性があるし、どんなに今が幸せでも、後々になってそれが大変に理不尽な環境だったと自覚してしまうこともある。




私は果として全てを受け入れたい派(受け入れられるとは言ってない)

人生の全ては原因なき果である。自分の人生に存在理由がないことなど誰でも知っているはずだろう。しかし、それでも人生の中の出来事に人は因を求める。最初から理不尽であるのを考慮すれば、人生に理不尽なことがあるのなんて大いに「理にかなっている」と言えるのだが、人は決してそれを認めたりはしない。理不尽な誕生に始まり理不尽な死に終わる、それならその理不尽に挟まれた間だけでも意気地をみせつけてやろう、ということなのかもしれない。人生を果として受け入れてたまるか、せめて未来の果のための因になってやるってね。

f:id:kabiru8731:20220321041436j:plain